「新鮮、超絶スタイリング」「Kカー離れした贅沢メカニズムも話題」マツダ キャロル(初代)【名車探訪Vol.15】

ライバルのスバル360に比べると150㎏近くも重くなってしまったのは、4気筒4サイクルエンジンやフロント合わせガラスなど、当時の軽自動車の枠を超えた破格の技術がふんだんに採用されていたため。もともとキャロルは小型車前提で開発され、装備も軽自動車としては上級なものが装着されていた。当時もてはやされていた加速性能こそ平凡だったものの、4人がしっかり乗れるために採用された大胆なスタイルなど、キャロルは今なお燦然と輝く名車だ。

●文:横田 晃

4ドアセダン(後期型)
発売から1年以上遅れで600に設定されていた4ドアを360にも追加。軽自動車初の4ドアモデルとなったキャロル。ちなみにキャロルのプロトタイプ「700」はもともと4ドアだった。

120㎞/hスケールのスピードメーターを中心に、左に燃料計、右に水温計をレイアウト。デラックスのダッシュボードはクラッシュパッド貼り。ラジオや温水式ヒーターはオプション。セルフキャンセル機構が付いたウインカー、2速式ワイパーなどはスタンダードにも装備された。

前席は左右とも座ったままで3段階、最大85ミリの前後調整が可能。また2ドアセダンのリヤサイドウインドウは前ヒンジで後ろが外側に開くほか、窓枠ごと着脱することも可能だった。

直列4気筒アルミ合金エンジン
軽量化と冷却効率から、シリンダーブロックやヘッドからミッションケースまでアルミ合金が使われ、その鋳肌の色から「白いエンジン」と呼ばれた。またバルブ配置はOHVながらクロスフロー、半球形の燃焼室も採用され圧縮比は10.0。エンジンは後ろ車軸より後方に横置きに積まれた。

東洋工業(マツダ)は、戦後復興に貢献した3輪トラックのトップメーカーだった

プロ野球チーム広島東洋カープは、かつて野武士集団にも形容された個性的なこの市民球団の歩みは、長く球団オーナーを務める松田家が礎を築いたマツダのそれと重なる。夢と希望を原動力にさまざまな困難に挑み、手痛い敗北も数多く喫しながら、けっして諦めることなく前に進んできたのだ。

そのぶれない姿勢が、熱狂的なカープファンを生み、ロータリーエンジンやロードスターなどの、世界に個性を認められるクルマをも誕生させた。1962年に当時の東洋工業=マツダが発売した個性的な軽自動車キャロルも、その系譜に連なる一台だ。

1921年に、東洋工業の前身となる東洋コルク工業の社長になった松田重次郎氏は、倒産寸前だった同社を機械メーカーに転向させ、1931年に発売した3輪トラック、マツダ号で自動車メーカーとしての基礎を築いた。戦前には乗用車の試作にも成功したものの、本拠地の広島は原爆で焦土と化す。それでも、いち早く操業を再開した同社の3輪トラックは広島のみならず、日本全国の復興に貢献。東洋工業は3輪トラックのトップメーカーとなった。

スバル360ヒットの影響を受けて、4サイクルV型2気筒エンジンなどの先進技術を投入したR360クーペを開発

それを足場に乗用車への進出を進めたのが、重次郎氏の息子で、1951年に東洋工業の社長に就いた松田恒次氏だ。1958年に登場したスバル360のヒットを受けて、彼はより安価でスタイリッシュな軽自動車の開発を命じ、1960年にスバルより10万円も安い、R360クーペを世に送りだしたのだ。3輪トラックにも、高度な技術や洗練されたデザインを取り入れていた東洋工業は、R360クーペに軽合金製の4サイクルV型2気筒エンジンなどの先進技術を投入。スポーツカーを思わせる流麗なフォルムも備え、発売直後にはスバルの販売台数を上回る。ただし、その人気は長続きしなかった。デザインを優先させた結果、後席はライバルのスバルより狭く、いかに洗練されたデザインでも、室内の作りも走りも、当時の人々が憧れるマイカー像にはまだおよばなかったのだ。

その反省から生まれたのが、キャロルだ。狙いは軽自動車であることを我慢する必要のない、庶民が夢見られる本格的な乗用車。ちなみに、広島市民に復興の夢を与えるために生まれながら、倒産寸前だったカープ球団の社長に松田恒次氏が就いたのは、キャロル発売の翌年、1963年のことだった。

R360クーペ(1960-1969年

R360クーペ(1960-1969年)
マツダ初の4輪乗用車。当時、国民車として圧倒的な支持を得ていたスバル360より、さらにコストを抑えるため、2プラス2というクーペスタイルを採用。スバルより10万円ほど安い30万円(2速トルコン車は32万円)という価格で1960年5月に発売されるや、爆発的売れ行きを記録。ただ発売初年度こそ2万3417台を生産し、スバルの上をいったものの、実用性の低さから販売は徐々に頭打ちになってしまう。当時多くのメーカーが2サイクルエンジンを採用する中、V型2気筒の4サイクルエンジンをリヤに搭載。アルミやマグネシウム合金を使った
エンジンをはじめ徹底的な軽量化で380㎏ の車重を実現、最高速度90㎞/hを達成した。

当時の軽自動車は2サイクル2気筒が常識だったが、キャロルは軽自動車初の水冷4サイクル4気筒OHVエンジンを搭載した

発表記者会見で、松田恒次社長はキャロルを「本物の自動車の音がする」と紹介した。当時の軽自動車といえば、2サイクル2気筒が常識。安っぽい排気音とオイルの白い煙は、マイカーに憧れる庶民を興ざめさせていた。R360クーペは4サイクルだったが、空冷V型2気筒の発する音は、やはり高級とは言い難かった。対して、キャロルの排気音はたしかに”本物の“自動車の音だった。軽自動車初の、水冷4サイクル4気筒OHVという、小型車なみのエンジンのおかげだ。

本物の自動車へのこだわりは、それだけではなかった。リヤウインドウを垂直に立てた”クリフカット“と呼ぶデザインは、後席にも大人が乗れる広い室内空間を実現。発売の翌1963年には軽自動車初となる4ドアも登場させている。インパネ上面にはソフトパッドも張られていたし、ラジオも装備できた。助手席前にはフタつきのグローブボックス。水冷エンジンを活かして、当時は小型車でも贅沢だったヒーターも注文できたし、ステアリングを戻すと自動的に止まるウインカーや電動ウォッシャーなど、今では常識だが、当時の軽自動車には望めなかった装備がカタログを飾っていた。

小型乗用車と遜色ない価値を、軽自動車規格の中で実現させることを目指した

東洋工業の乗用車第一号となったR360は、合理性を第一に開発されたスバルと比べるとずっと贅沢感を盛り込み、差別化を図ったが、それでも人々の期待に添うことはできなかった。そこで、キャロルは徹底的に小型乗用車と遜色のない価値を、軽自動車の規格で実現させることを目指した。じつはその商品企画は、小型車への展開を前提にしていた。事実、キャロル発売前の1961年秋の全日本自動車ショーには、700㏄エンジンを搭載したキャロルのプロトタイプが出展されていたのだ。

本来の姿とも言えるその小型車版キャロルは、1962年秋には600㏄の4ドアで市販に移されてもいる。もっとも、キャロル600は本格的な小型車として認知されるまでには至らず、本命小型車のファミリアが登場するまでの2年間ほど作られたに過ぎない。一方、軽のキャロルには、当時開発が進められていたロータリーエンジンの搭載も検討されていた。1963年の東京モーターショーには1ローターエンジンを搭載したプロトタイプも出展している。しかし、技術的な問題に加えて、他の軽自動車メーカーの抵抗もあって市販には至らなかった。

当時、自動車メーカー再編の波の中で生き残りを賭けて総合自動車メーカーへステップアップする必要があった

メーカーもユーザーも来るべきマイカー時代の理想の一台の姿を求めて、手さぐりで試行錯誤を繰り返していたのだった。1960年代の日本の自動車産業は、激動のさなかにあった。1965年の完成自動車輸入自由化を前に、国内自動車産業の保護と育成を目指した当時の通産省は、自動車メーカーの再編を構想したのだ。

その時点ですでに11社を数えていた国内自動車メーカーが、役所の目論見どおり、3グループ程度に再編されてしまえば、中小メーカーに生き残る術はない。事実、1960年代後半にはプリンス自動車が日産に合併吸収され、日野やダイハツがトヨタグループ入りするなど、厳しいサバイバルゲームが展開されるのだ。

そんな状況の中で、1960年にR360で乗用車メーカーの仲間入りを果たした東洋工業が単独で生き残るためには、早期にフルラインナップを揃えた総合自動車メーカーになる必要があった。その最大の武器が1961年にライセンスを購入したロータリーエンジンの実用化であり、それを実現する前に、小型車メーカーとしての実績も積んでおかねばならない。

豪華装備と相まって重量増に苦しんだキャリルは、ライバルである高性能軽自動車に比べて動力性能では見劣りするものであった

キャロルに積まれた軽自動車としては贅沢な4気筒エンジンも、小型車への発展を見越して設計され、1963年には、800㏄ にまで拡大されたそれを搭載した初代ファミリアが登場している。メーカー業界再編に抗うための他にない武器を求めて磨き抜いた技の戦略としては、最初から800㏄を前提に設計したエンジンを縮小させて軽自動車に積むことで、コストダウンと商品力の向上を狙ったということだろう。

当時としては先進的なオールアルミ合金製の4気筒OHVは、おかげでキャロルに上質な乗り味をもたらした。ただし、1気筒あたりわずか90㏄では、太いトルクは求められない。加速や上り坂では、貧相な音と煙をまき散らす2サイクル軽自動車の後塵を拝した。

ライバルより進んだ4速のトランスミッションはそれを補う武器ではあったが、豪華装備とあいまって車重がかさんで、やはり動力性能の足を引っ張る。最初はハイメカニズムに飛びついた当時の日本人も、やがてそれが必ずしもクルマの価値を決定づけるわけではないことに気づく。2輪用の空冷2気筒エンジンを転用したホンダN360や、2サイクル3気筒のスズキフロンテなどの高性能軽自動車が登場するにおよんで、キャロルの人気は下降していった。

キャリルの後方戦略として開発されていたファミリアは、その後、マツダの礎ともなるロータリーエンジンが搭載されたのだ

しかし、高度な技術で実現させた、他にはない個性を直球で投げ込む姿勢は、今日のマツダにも受け継がれている。マツダ車の看板となった、鮮やかな赤のヘルメットを被り、敗北をも糧としてファイティングポーズを取り続けるカープ軍団と同じ血が、そこには流れているに違いない。

軽自動車ながらオールアルミ製4気筒という贅沢なキャロルのエンジンは、その後の東洋工業の経営戦略に沿って開発されていた。キャロルも発売前の1961年秋のショーに700として出展されているが、本命だったのは1963年に発売された800㏄ のファミリアだ。

カローラ/サニーの姿はまだなく、マイカー時代は掛け声に過ぎなかった当時の市場環境から、最初に投入されたのは商用ライトバン。今日のマツダと同じく、スタイリッシュなデザインを纏ったそれは、商店の配送車兼マイカーとして好評を博し、翌1964年には、満を持してセダンも投入された。キャロルと基本設計を共有するオールアルミ製の4気筒エンジンはOHVだったが、「白いエンジン」のキャッチフレーズで先進技術をアピール。1965年に追加された1Lのクーペには早くもOHCを採用して68PSの高性能を誇り、高い実力を見せつけた。1967年に登場した2代目ファミリアにはロータリーエンジンが搭載されるなど、ファミリアは今日のマツダの礎となる主力商品に育ち、1980年に誕生したFFファミリアは時代の寵児となるほどの人気を得た。そのスタートは、キャロルに積まれたエンジンだったのだ。

2ドアセダン(前期型)
700㏄4ドアの試作モデルはショーで大きな反響を得たが、まだ低価格の軽自動車購買層が多いと判断したマツダは、360㏄の2ドアセダンを先行デビューさせた。

キャロル2ドアスタンダード(1962年式)
●全長×全幅×全高:2 9 8 0㎜×1295㎜×1340㎜ ●ホイールベース:1930㎜ ●トレッド( 前/後):1050㎜/1100㎜ ●車両重量:525㎏ ●乗車定員:4名●エンジン( D A 型): 水冷直列4 気筒OHV358㏄●最高出力:18PS/6800rpm●最大トルク:2.1㎏・m/5000rpm ●燃料タンク容量:20ℓ●最高速度:90㎞/h●燃料消費率:25.0㎞/ℓ(定地)●最小回転半径:4.3m●トランスミッション:前進4段、後進1段 ●サスペンション(前/後):トレーリングアーム式独立懸架●ブレーキ( 前/後):ドラム ●タイヤ( 前/後):5.20-10-4PR ◎新車当時価格(東京地区標準価格):37万円

(後期型:1966年〜)
前期型と後期型の外観上の違いのひとつがリヤの形状。ナンバープレートで二分されていたリヤグリルは後期型で一体形状に。また丸いブレーキランプが四角に変更されている。

トランクルーム(後期型)
1966年10月のマイナーチェンジで、スペアタイヤはエンジンルームへ移され、フロントのトランクルームはかなり実用的になった。

トランクルーム(前期型)
前期型はスペアタイヤや20ℓの燃料タンク、さらに工具類が占拠し、トランクにはほとんど荷物が積めなかった。

キャロル600
ホイールベースは360と変わらないが全長/全幅はわずかに拡大された600。586㏄のエンジンは28PS/4.2 ㎏・mを発生した。写真はマツダ車生産累計100万台を記念して造られたゴールドのキャロル600。