荷台付き二輪車、ひいてはリヤカーをルーツとするオート三輪は、戦前まで運転免許がいらなかった。戦後になって免許取得が義務付けられるものの、それでも安価で小回りが利き、税金面でも有利なオート三輪は、日本の戦後復興を大いに支えたものである。しかし、道路の整備が進み、自動車に高性能が求められるようになると、オート三輪は転倒しやすいなどの理由で一気に衰退していってしまう。その最後の時代に光り輝き、軽オート三輪ブームに火を付けたのがミゼットだった。
●文:横田 晃
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人気タレントを使ったテレビCM戦略は、ミゼットから始まった
クルマのCMにタレントが登場するのは、今では当たり前のこと。旬のタレントと新型車の取り合わせは、時に大きな話題にもなる。その先駆けとなったのが、ダイハツが1957年に発売した軽オート三輪車のミゼットだった。起用されたのは、当時、家庭に普及しつつあったテレビで一躍人気者になったコメディアンの大村崑さん。
1958年の春から大阪テレビで始まった全国ネットのコメディドラマ番組『やりくりアパート』を、ダイハツは一社提供。その中で、大村さんが共演者と「一番小さいクルマ~」「ミゼット!」「一番小回りの利くクルマ」「ミゼット!~」「一番安いクルマ~」「ミゼット!」と掛け合いで連呼する生CMが話題を呼んだのだ。
事実、ミゼットは当時の日本でもっとも小さく、小回りが利いて、経済的なトラックだった。酒店やクリーニング店といった、街の商店の小口配達はもちろん、郵便局や消防、電力会社などの現場でも重宝され、パトカーとして使われたミゼットもあった。そうして、ミゼットはCM放映開始の翌1959年1月にはたちまち生産累計1万台を達成。さらに1年後には5万台、その年の10月には10万台の生産を記録するほどの大ヒットとなった。
1957年に登場した当初のDKA型は、排気量わずか250㏄。ドアもない吹きさらしのキャビンにオートバイのようなバーハンドルの1人乗りだった。1959年秋には自動車らしい丸ハンドルやドアを備えた2人乗りのMP型へと進化。同年暮れには排気量も305㏄に拡大され、スタイルがキュートになったことも人気に拍車をかけた。
ダイハツがミゼットの開発に着手した1953年当時の軽自動車規格では、2ストロークは240㏄まで。1955年に360㏄へと拡大されたが、ミゼットは開発初期のサイズのまま、可能な範囲で排気量を拡大しただけで発売された。それが、一番小さく、小回りが利いて経済的という売り文句ともなった。
MP型は左ハンドルも作られ、北米に輸出されて広大な工場内の構内車などに使われた。東南アジアや中東にも輸出。タイでは今でも、それをベースとしたトゥクトゥクと呼ばれる三輪車が現地の中小メーカーによって作られ、タクシーとして活躍している。ミゼットが登場した当時の軽自動車は、庶民のマイカーとしては高価で、市場の将来性はまだまだ危ぶまれていた。しかし、ミゼットによって、まずは手軽な商用車として人々に認知され、前後してスバル360が登場したことで、日本人の暮らしに根づくのだ。
戦前から戦後、元気に街を走り回ったオート三輪
戦争で荒廃した日本の復興期になによりも必要とされたのは、バスやトラックなどの商用車だ。戦時中は軍用の大型トラックなどを作っていたトヨタや日産、日野やいすゞは、早くから生産を再開して、旺盛な復興需要に応えた。
戦前から、オート三輪の2大メーカーだったダイハツと東洋工業(現マツダ)も、戦前型の生産を再開し、こちらは商店などの小口の需要を満たしていった。一方で、戦争中には航空機や軍艦などを手がけていたメーカーも、技術を活かして民生用の乗り物作りに乗り出した。工場に残されていた軍用資材を使い、中島飛行機(現富士重工)はラビット号、三菱の航空機部門はシルバーピジョン号というスクーターを開発して好評を得た。ラビットは陸上攻撃機「銀河」の尾輪を使って開発され、三菱がスクーターに続いて開発したオート三輪のみずしま号の荷台には、航空機用のジュラルミンが使われていたのだ。
中でも比較的簡単に作れるオート三輪の分野には、愛知機械や明和興行など、旧軍事メーカーが数多く参入。中小メーカーもふくめて、たちまち激戦を繰り広げた。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による自動車の生産制限が解かれて間もない1952年には、小型乗用車の生産台数が年間でわずか5000台足らずだったのに対して、オート三輪はなんと月に4000台。1954年には年間10万台も生産される活況を呈している。その中でも、ダイハツとマツダという2大ブランドは大きなシェアを占め、ライバルメーカーが次々と脱落していく中で、確固たる地歩を固めていった。
ただし、トヨタや日産などの大メーカーは、再興後の日本を見据えて、次のステップに踏み出していた。トヨタは独自技術で乗用車作りに挑み、日産や日野、いすゞは、それぞれオースチンやルノー、ヒルマンなどの外国車のノックダウン生産で学びながら、小型四輪車作りの技術を確立していく。1955年には、トヨタが初の本格純国産乗用車、クラウンを発売。同年に日産もオースチンでの経験を活かした小型車のダットサンを売り出す。
庶民にとってマイカーはまだ遠い夢だったが、日々豊かになる高度経済成長は、「いつかはマイカー」という夢を人々に抱かせた。復興とともに、トラックやバスも大型化、高級化を指向し、オート三輪もサイズや装備を拡充する一方、中小企業も四輪トラックに手が届くまでに成長していった。そんな中で、オート三輪の原点に帰った軽便な貨物車としてミゼットは登場して、成功したのだ。
発動機製造にいち早く着手、オート三輪業界を牽引したダイハツ
日本の街角でエンジン付きの乗り物が見られるようになったのは、大正時代のこと。自転車に海外から輸入したエンジンを取り付けた、今でいう原付が街を走り出し、やがて、より荷物が積みやすい三輪車が登場した。エンジンは、当初は輸入品しかなかったが、やがて国産化するメーカーが出てくる。明治40(1907)年に発電用などのエンジンの国産化を目指して創業した、大阪の発動機製造もそのひとつ。
大正7(1918)年には軍部からの依頼でトラックの試作も手がけていた同社は、昭和5(1930)年にオート三輪用の500㏄エンジンを開発してオート三輪メーカーに売り込む。だが、まだまだ日本には輸入エンジンの信奉者が多く、反応は芳しくない。そこで、自身で車体まで製作し1933年には自社ブランドでの販売を開始。そこで使ったブランド名がダイハツだ。先発のメーカーの多くが街工場レベルだったのに対して、軍や企業向けのエンジン作りで高い技術力を蓄えていたダイハツは、たちまちトップブランドになる。同じころにオート三輪作りを始めた東洋工業のマツダ号や、日本内燃機のくろがね号とともに、戦前/戦後の物流を担った。
ただし、1957年をピークにオート三輪の生産台数は減少に転じる。豊かになった人々は、トラックにもより快適で使いやすい四輪を求めるようになり、メーカーもそれに応える手頃な製品を投入するようになったのだ。中でもトヨタが1954年に発売したSKB型トラックは、戦略的価格で爆発的な人気を博す。のちにトヨエースと名付けられるそれは、オート三輪の勢いを止めた。一方、大型化/高級化で四輪車との差別化が難しくなった末期のオート三輪の中で、有終の美を飾ったのがミゼットだった。
ミゼット(DKA/MP)変遷
1957年(昭和32年) |
・DKA型発売(8月) |
1959年(昭和34年) |
・当初はアメリカ輸出用として、左ハンドルのMPA型がデビュー(4月) ・国内向けMP2型(エンジンはDKA型と同じ10HP) 発売(10月) ・エンジンをZD型に変更したMP3型発売(12月) |
1960年(昭和35年) |
・全長を200㎜伸ばしたMP4型発売(5月) |
1961年(昭和36年) |
・三角窓とサイドモールを装着(8月) |
1962年(昭和37年) |
・全長を2970㎜に延長、スチール製ルーフとしたMP5型発売(9月) |
1963年(昭和38年) |
・ガソリンとオイルを自動混合するオイルマチック採用(4月) |
1969年(昭和44年) |
・ヘッドレストとシートベルトを装備したMP5後期型に改良(8月) |
1972年(昭和47年) |
・販売終了 |