117クーペは、いすゞがフローリアンのデザインを依頼していたイタリアのカロッツェリア「ギア」からの提案によるものといわれている。当初は商品化に積極的でなかったいすゞだが、内外の自動車ショーでの評価の高さや、国内ライバルメーカーが相次いでフラッグシップモデルを投入したこともあり、ついに販売を決断する。デザイン主導で決まったこのクルマの生産は当然のように手間がかかり、デビュー当時は1グレードのカスタムオーダーカーといった感じだったらしい。エレガントと評される美しいボディラインは空力特性にも優れ、200㎞/hという最高速度も誇った。
●文:横田晃
日本車が手本とした、美を優先する伊デザイン。その代表が117クーペ
日本において、商品のデザインが売れ行きを大きく左右することに最初に気づいたのは、松下電器器具製作所(後の松下電器産業、現パナソニック)の創業者にして”経営の神様“と呼ばれた松下幸之助だった。1951年に初のアメリカ視察に出かけた彼は、さまざまなデザインのラジオが店頭に並び、個性を競っている様子に驚いた。当時の日本では、工業製品の価値がデザインで左右されること自体が、認識されていなかったのだ。
そうして、帰国後に彼が発した「これからはデザインの時代だ」という言葉が、日本のインダストリアル(工業)デザインの歴史を開いた。もっとも、アメリカのジョーゼフ・サイネルが”インダストリアルデザイン“という言葉を世界で初めて使ったのは1919年のこと。けっして古い話ではない。それまでの世界の工業製品の造形は、設計者が機能や性能、生産性を合理的に追求した結果であり、売るためのデザインは意識されていなかった。自動車もしかり。1908年に登場したT型フォードはその典型的なクルマだ。
しかし、それから20年もモデルチェンジすることなく売られたT型が陳腐化し、見た目=デザインを重視したGMが躍進したのをきっかけに、アメリカ車はときにデザインのためのデザインを競うようになる。松下が渡米した1950年代には、当地を行き交うクルマたちは、機能的にはあまり意味のない、しかし魅力的な流線型フォルムを纏っていたのだ。ちょうどそのころに、自動車産業が本格的に立ち上がろうとしていた日本の自動車メーカーがデザインを重視し、小型車の造形により精通した欧州のデザイナーの力を借りたのも、当然のことだった。
欧州のインダストリアルデザインは、機能を核に置くドイツと、美に価値を見いだすイタリアが二大潮流。日本のメーカーが注目したのは、古くから手作りの馬車を作る工房=カロッツェリアが発達し、多くの花形デザイナーを輩出していたイタリアだった。ダイハツはコンパーノのデザインをビニヤーレに依頼し、日野はコンテッサの開発でミケロッティを頼った。そうしたなかでも大きな注目を集めたのが、1966年のジュネーブショーで登場したジョルジェット・ジウジアーロの手になる、いすゞ117クーペだった。
販売的には失敗だったが、人々を魅了し続けた117クーペ13年の歴史
117クーペは、1967年に発売されたフォーマルセダンのフローリアンをベースとしている。そもそも117という車名は、フローリアンの開発コードなのだ。戦前から大型車メーカーとして高い技術力を誇っていたいすゞは、1950年代に英国のヒルマンのノックダウン生産で乗用車造りを学んだ。そして1960年代には自社開発のベレルやベレットを送り出したものの、デザイン面では後れをとっていた。それを挽回すべく手を組んだのが、まだ日本での実績がなかったイタリアのカロッツェリア、ギア社だった。フローリアンのデザイン開発中には、まだジウジアーロはベルトーネに在籍していたが、その後、ギア社に移籍した彼の手で117クーペは生まれた。
ただし、凝った造形は当時のいすゞの生産設備では量産することはできなかった。それでも、いすゞは乗用車メーカーとしての看板の役割を期待して、このクルマの市販を決意。既存の設備では造れない工程は職人の手仕事で仕上げることで、1968年末に発売にこぎつけた。初期のモデルがハンドメイドと呼ばれる所以だ。
エンジンも、ベレットなどに積まれていた1.6LのOHVをベースに、DOHCヘッドを与えて高性能化した。1970年には、日本の乗用車としては初となる電子制御燃料噴射装置も採用している。
フロントがダブルウィッシュボーン、リヤがリーフリジッドの足回りはフローリアンがベースながら、単筒式のショックアブソーバーやトルクロッドなどで武装して、スポーツカーらしいハンドリングと快適な乗り心地を両立させた。ただし、172万円という当時としては超高額な値付けをしたにもかかわらず、月にせいぜい50台の生産台数では、利益が出ないのは当然だ。
フローリアンやベレットのモデルチェンジもままならないほど経営が行き詰まってしまったいすゞは、1971年に米国の巨大メーカーGMと提携。獲得した資金と技術で117クーペの量産に成功して巻き返しを図る。1977年には、角形ライトなどでフェイスリフト。1981年まで、じつに13年にわたって生産された。その間にカスタムオーダー的なクルマという初期の個性こそ失われたが、その美しさは最後まで人々を魅了し続けたのだった
多くの国産車の中で異彩を放っていた美しい、いすゞの乗用車
いすゞとジウジアーロの関係は、彼が自身のスタジオであるイタルデザインを設立したあとも続いた。1981年に登場した117クーペの後継モデル、ピアッツァもジウジアーロの作。このときも、実現不可能と思われた造形をいすゞは見事に量産化し、世界を驚かせた。
1960年代後半からの10年あまりで、いすゞをはじめとする日本の自動車産業の技術、とくに生産技術は長足の進歩を遂げ、デザイナーの描いたイメージを、そのままに製品化することを可能としていたのだ。117クーペから始まったいすゞのデザインへのこだわりは、その後、1997年に発売されたスペシャリティSUV、ビークロスなどにも受け継がれた。ただし、そのこだわりが経営に貢献することは残念ながらなかった。2002年にいすゞは乗用車事業から完全撤退。創業以来の本業である大型車、商用車へ専念する。美しい商品を作り出す技術は確立できても、それを移り気な庶民にタイムリーに売る術は、ついに獲得できなかったのだ。
117クーペの歴史
1966年(昭和41年) |
・3月のジュネーブショーで「コンクール・ド・エレガンス」を受賞。 |
1968年(昭和43年) |
・12月から販売開始。 |
1970年(昭和45年) |
・11月マイナーチェンジ。電子制御燃料噴射のECと1.8Lツインキャブの1800を追加。 |
1971年(昭和46年) |
・11月マイナーチェンジ。1800にシングルキャブの廉価版1800N(100馬力)136万円を追加。 ・GM社と資本・技術提携。 |
1972年(昭和47年) |
・第19回東京モーターショーに「117クルーザー」を出展。 |
1973年(昭和48年) |
・3月、量産化に向けて大幅変更「中期モデル」へ(ボディパネル全面変更、DOHCを含め全車1. 8Lに変更など)。 |
1974年(昭和49年) |
・XGを除く全車にオートマチック車を追加。 ・10月、排ガス規制強化で馬力ダウン。 |
1977年(昭和52年) |
・マイナーチェンジで「後期モデル」(ヘッドライトを丸型4灯から角形4灯に変更など)へ。 |
1978年(昭和53年) |
・エンジンを2.0Lに拡大した「スターシリーズ」を発売。 |
1979年(昭和54年) |
・2.2Lディーゼル追加。 |
1981年(昭和56年) |
・生産終了。 |