日本がバブルに沸いていたちょうどその時代に、1台の高級車が誕生した。これまでパーソナルカーの世界に3ナンバーボディ専用車というものは存在しなかった。その殻を破り登場した初代シーマは、ワイドボディの最新鋭高級サルーンという常識的な枠に収まるはずがなかった。3LのV6DOHCターボの圧倒的な加速感は、ある意味、暴力的とも言えるクルマであった。高級車+ワイルドすぎる加速感の相反する性格をもつクルマに人々は魅了され、そして「シーマ現象」という社会現象が生まれていった。
●文:月刊自家用車編集部
豊かな時代の波に乗って人々の心を掴んだ高級車
1980年代頃までの日本において、3ナンバーの普通自動車は贅沢品の象徴だった。自動車税ひとつを取っても、税額が4万円以内に抑えられた排気量2L未満の小型車に対して、排気量2Lを超えるといきなり8万1500円。さらに排気量が3Lを超えると8万8500円と、大排気量車には倍以上の自動車税が課せられていた。当時は、排気量が2Lを超える3ナンバー車は、運転手付きのショーファーカーか、一部の富裕層が所有する輸入車というイメージが強く、オーナーになるなんて夢のクルマだったのだ。
ところが、日本が豊かになるにつれて、それをパーソナルカーとして乗り回す富裕層が増えてきた。さらに、市場開放を求めるアメリカは、高すぎる日本の自動車関連税を非関税障壁として糾弾。それを受け、1989年4月の消費税導入に合わせて、高級製品にかけられていた物品税を廃止、その流れで自動車税制が改正され、排気量2.5Lまで4万5000円、3Lまでが5万1000円と細かな区分けと大幅な引き下げが行われたことで、大排気量車を所有する敷居がかなり低くなった。
そんな時代の波を察知し、バブル景気を駆け抜けたのが、1988年1月に発売されたシーマだった。それまでは、セドリック/グロリアやクラウンのように上級グレードとして排気量2Lを超えるモデルはラインナップされていたが、どれもベースグレード=5ナンバーボディに大排気量エンジンを搭載したものがほとんどで、外観上の差別化はなされていなかった。しかし、それを嫌った富裕層は、輸入車に流れ始めていた。
そこでトヨタは、1987年に投入する8代目クラウンに3ナンバー車専用ボディを与えることを決定。その情報を得た日産も、次のセドリック/グロリアへの3ナンバー車専用ボディ導入を決めたのだ。
だが、クラウンが1987年9月に3ナンバー/5ナンバーボディを同時に発表したのに対して、それに先立つ6月に発表した7代目セドリック/8代目グロリアには、3ナンバー専用ボディの開発は間に合わなかった。そこで6月の発表時には、遅れて3ナンバー専用車が登場することをアナウンス。車名にもシーマのサブネームを付けて差別化した。それが、シーマにセド/グロとは異なる上級車のイメージを持たせるプラス作用となったのである。
開発責任者が日産初の営業部門出身者だったのも、このクルマの個性を強めていた。最前線で客の生の声を聞いてきた彼は、スケジュールを曲げてでも5ナンバー車とは明確に異なるデザインを通し、本来はレパード用に開発されていたV6の3Lターボを、社内を拝み倒して先に搭載させたのだ。そうして生まれたシーマは、セド/グロよりひとクラス上の存在感を放ち、255馬力の高性能で、パワーボートのような尻を沈めて加速する豪快さに喝采を浴びた。500万円の国産車の爆発的な売れ行きは好景気の象徴となり、「シーマ現象」という言葉は、1988年の流行語大賞銅賞にも輝いたのだった。
初代シーマの変遷
1987年 |
10月 東京モーターショーに出品。 |
1988年 |
1月 セドリックシーマ/グロリアシーマとして販売開始。 |
1989年 |
8月 マイナーチェンジ。フロントグリルデザインを変更。また内装スイッチの形状変更、漆塗りの本木目パネルの採用など。 |
1990年 |
6月 廉価グレード「タイプLセレクション」をラインナップ。 |
1991年 |
8月 フルモデルチェンジで2代目に移行。 |