
昭和46年、サラリーマンの平均年収は約50万円。初代サニーは「サラリーマンでも買えるクルマ」という明確なコンセプトのもとに開発が始まっている。日産独自の手になるボディは、一般公募で決まった「サニー」という車名にぴったりの、細いピラーと大きな窓が特徴。セパレートシートなど、このクラスではもっとも豪華な内装を誇りスタンダードで41万円(東京)という価格は、軽自動車を含むライバル車に大きな衝撃を与えた。
●文:横田晃(月刊自家用車編集部)
日産サニー(初代/1966)
【1966 日産サニー(初代)2ドアセダンデラックス】1966年4月、この2ドアセダンとバンでスタートしたサニー。ロングノーズでテールが短い。リヤサイドウインドウは前ヒンジで後部が外側に開いた。ステアリングはブルーバードにも採用されたリサーキュレーティングボール式を採用し、最小回転半径は4.0mを誇った。
【1966 日産サニー(初代)2ドアセダンデラックス】●全長×全幅×全高:3820×1445×1345mm ●ホイールベース:2280mm ●トレッド(前/後):1190/1180mm ●車両重量:645kg ●乗車定員:5名 ●エンジン(A10型):水冷直列4気筒OHV988cc ●最高出力:56ps/6000rpm:●最大トルク:7.7kg-m/3600rpm ●燃料タンク容量:35L ●最高速度:135km/h ●0-400m加速:20.6秒 ●最小回転半径:4.0m ●トランスミッション:前進3段/後進1段 ●サスペンション(前/後):ウィッシュボーン式独立懸架/半楕円リーフリジッド ●タイヤ:5.50-12 4P ◎新車当時価格(東京地区):46.0万円
モール類を極力減らしたシンプルなデザインの初代サニー。スタートダッシュは記録的な売り上げを記録したが、わずか7か月後にはメッキグリルやモールを多用し豪華さを前面に押し出したカローラの登場で劣勢に立たされた。
160km /hまでの速度計の左に燃料計、右に水温計を配置。メーター下のタンブラー型スイッチは左がヘッドライト、右がワイパー(デラックスは2スピード)。ヘッドライトのハイ/ロー切り替えは方向指示器レバーで行った。ワイパースイッチの右下にあるのはウォッシャー液の手動ポンプ。インパネ上部は太陽光の反射を考え、黒いソフトパッドで覆われた。グローブボックスは決して大きくないが、リッドはトレイとして使用可能。またグローブボックス下にも棚が用意されていた。カーラジオはデラックスに標準装備、時計はオプション。3段フルシンクロ式のコラムシフトを採用する。
セパレート式のフロントシート、デラックスはリクライニング付き。運転席は140mm のスライド調整が可能。また助手席は座面を含めシート全体が跳ね上がる方式で、2ドアでも後席乗降は楽だった。3人乗りのリヤシートは、クラストップレベルの広さだった。
サニーのために新設計された直列4気筒ハイカムシャフトのOHV「A10型」エンジン。セダン用は56psだが、クーペ用はダブルエグゾーストで60psにパワーアップされた。トランクルームは、トランクリッドを開けたままで固定できるリジッドストッパーを採用。実用新案申請もされた。
ライトバンを隠れ蓑にようやく動き出した、新たな大衆小型車開発
ビジネスマンなら誰でも、市場にタイムリーに商品を投入することの難しさを知っているだろう。どんなに素晴らしい企画でも、技術がなければ作れないし、どんなに技術が優れていても、トップの理解がなければ、それを世に出すことはできない。いつの時代のどんな商品も、開発途上に次々と現れるそうした関門を乗り越えて世に出た。1966年に登場して、日本のマイカー時代の起爆剤となった日産サニーも例外ではない。しかも、技術の日産と呼ばれるにふさわしい実力を持つ開発者たちに立ちふさがった敵は、社内にいたのだ。
1960年代の日本は、高度経済成長の只中。とはいえその前半にあっては、庶民にとってマイカーはまだ夢だ。1955年のスズライトを皮切りに軽自動車が続々と登場し、1958年にはスバル360も誕生していたが、それに手が届くサラリーマンは少数派だった。その一方で、1961年に登場したパブリカや1964年のファミリアなど、800cc〜1L級の大衆向け小型乗用車への挑戦は、各社で始まっていた。日産も1962年には同クラスエンジンの試作が進んでいた。ところが、そのエンジンを積む乗用車の企画に、当時の日産の社長は難色を示したのだ。
彼は労働争議をきっかけに、銀行から送り込まれた人物だった。セドリックの後席に乗ることはあっても、自身でドライブを楽しむ価値観は持ち合わせていない。マイカー時代の到来を説き、大衆小型車の必要性を訴える部下に、彼は「お金のない大衆はブルーバードの中古車に乗ればいい」と言い放ち、既存商品との共食いになりかねないラインナップの増加にノーの判断を下したのだった。
しかし、若き開発陣は諦めなかった。乗用車は庶民にはまだ手が届かなくとも、街の商店の配送車兼マイカーとして、商用ライトバンは普及しつつあった。先行するファミリアも最初はライトバンから発売されて好評を得ていた。そこで彼らは、まず小型ライトバンの企画を1964年に通し、そのバリエーションとして、乗用車の開発を水面下で続けた。
そうして、頑固で鳴る社長についにOKと言わせたのが、コードネームA260X。初代サニーの企画だった。開発コンセプトは「サラリーマンでも買えるクルマ」。具体的には、年収100万円程度の勤め人がターゲットだ。年齢的には40代で課長クラスといったところだろう。厳しくコストを管理して最終的に実現させた価格は、スタンダードで41万円から。その狙いは、まさに大当たりとなった。
強力なライバルの出現で、装備の充実や車種追加を推し進めたサニー
当初難色を示した社長も、いざGOを出すと全面的に支援してくれた。1966年の元旦には、発売予定の大衆新型車として、実車を景品に車名を募集する広告を大々的に掲載。じつに848万3000通あまりの応募を集めて話題を呼ぶ。
それは、マイカー時代への庶民の熱い期待を映し出す数字だった。1966年4月の発売から5か月で3万台を販売。その後も順調に台数を伸ばし、同年末には月販1万台を達成する。記録的なスタートダッシュに、社長も「オレが間違っていた。やっておいてよかったな」と開発陣に頭を下げたという。
しかし、その成功に酔いしれる時間は、サニーにはなかった。わずか7か月後の1966年11月に、トヨタが強力なライバル・カローラを送り込んできたのだ。軽快に回る1LのA10型エンジンと、スタンダードで625kgという軽量設計は、技術の日産の名に恥じずハンドリングも上々で、専門家筋からの評価は高かったサニーだが、素人目にはカローラの方が魅力がわかりやすかった。
それもそのはず、カローラを開発したトヨタの長谷川龍雄主査は、その前に開発したパブリカが質素すぎて売れなかった反省から、わかりやすい魅力をカローラに盛り込むことに注力していたのだ。モール類を極力減らしたクリーンなデザインのサニーに対して、カローラはメッキグリルやモールで、豪華さを前面に出した。サニーが当時の上級セダンの常識だったコラムシフトなら、カローラは当時トラック的と見なされていたフロアシフトをあえて選び、スポーツカーのメカと謳う。
そして極め付きが、サニーが1Lで開発中という情報を得て、急きょ排気量を拡大した1.1Lエンジンだ。カローラはそれを「プラス100ccの余裕」と宣伝して、サニーよりひとクラス上のクルマを人々にイメージさせたのだ。もちろんサニーも黙ってはいない。登場翌年には4ドアセダンとともに、スポーツデラックスを名乗るフロアシフト車やAT車も投入。
1968年にはクーペも発売して対抗する。一方、カローラもクーペのスプリンターやATの追加など、真正面から応戦した。かつてのBC(ブルーバードVSコロナ)戦争になぞらえて、CS戦争と呼ばれたその競い合いは、その後も延々と続いた。1970年に登場した2代目サニーが1.2Lを中心に据えると、次のカローラは1.4Lを出した。サニーが対抗してエクセレントシリーズを加えると、カローラはセリカから譲り受けたDOHC1.6Lまで詰め込んで、覇を競ったのだ。
サニー&カローラ、その切磋琢磨は日本車躍進の縮図
初代から激しい販売合戦を繰り広げたサニーとカローラは、日本にマイカーを急速に普及させた。さらに代を重ねると、戦いのリングを世界の市場にまで広げて、多くの派生モデルを生んでいく。
商品企画面では、サニーは3代目のクーペがハッチゲートを持つファストバックスタイルで人気を呼ぶと、3代目カローラはリフトバックと呼ぶシューティングブレークスタイルで海外でも好評を得るなど、新しい車型を創出。
4代目サニーでは、スタイリッシュなステーションワゴンのカリフォルニアが、すっかり豊かになった日本人に遊び心を教えてくれた。
サニーは5代目でパルサーとプラットフォームを共用するFF車にチェンジ。1.5Lクラス初のターボを積むルプリも誕生させる。
6代目ではスタイリッシュなクーペのRZ-1や2BOXハッチバックの306が登場し、シリーズ初のDOHC車や4WD車も加わるなど、ボディタイプもエンジンも膨大なバリエーションへと成長していくのだ。
モータースポーツでも、空力に優れる2代目サニーがA型エンジンのOHVながら優れた素性を活かし、ツーリングカーレースで大活躍した。対して、DOHCエンジンを積んだ2代目カローラのレビンと兄弟車のスプリンタートレノが国内外のラリーで勝利を重ねるなど、それぞれの個性を活かした戦いぶりで名を轟かせた。
サニーのために誕生し、軽快な吹き上がりと信頼性、メンテナンス性の高さから、名機と呼ばれたA型エンジンは、モータースポーツだけでなく、新興国市場での日産車の躍進にも寄与した。1970年代末には年間100万台規模で量産され、海外の生産工場では、じつに2008年まで42年にわたって造り続けられたのだ。
海外市場ではセントラ/ヴァーサ/ツルなど、現地に合わせた車名で輸出/現地生産されたサニーは、2000年代に入ると日本国内では勢いを失い、1998年に登場した9代目を最後にその名は使われなくなった。事実上の後継車となるラティオも、ライバルのカローラが今なお健闘しているのに対して、ついに命脈尽きてしまった。
それでも、サニーが日本のモータリゼーション史に記した足跡は、永遠に残るだろう。1966年という年にサニーとカローラが登場し、好敵手として競い合うことがなかったなら、日本車の技術も、また世界の市場での日本車の地位も、今とはまったく違っていたはず。史上初の「サラリーマンに買えるクルマ」は、間違いなく、今日の日本車の礎なのである。
【日産サニー(初代)1970】1970年全日本ストックカー富士200マイルレース。鈴木誠一選手が駆るサニークーペB110が優勝。TSレースでのサニー伝説はここから始まる。
【日産サニー(初代)A10型エンジン】A型エンジンの源流A10型は、初代サニーに搭載されて世に出た。デュアルエグゾーストを採用したサニー1000は、0-400m18.4秒(2人乗り)、最高速140km /hを誇った。
初代サニーの変遷
1965年(昭和40年) |
・5月:正規試作車が完成。 |
1966年(昭和41年) |
・1月 :元旦の広告で車名公募キャンペーンをスタート。 ・2月 :東京・千駄ヶ谷の東京体育館でサニーの車名発表会が開催される。発表会には日産創業者の鮎川義介も立ち会う。 ・4月 :B10型サニー販売開始。発売時のグレードは2ドアセダンが「スタンダード」(41万円)と「DX」(46万円)。さらにバンに2グレードの計4車種。ミッションは3速コラムMTのみ。 ・10月 :グレーとブラウンのボディカラー追加、全5色に。 ・12月:月間国内登録1万台を達成。 |
1967年(昭和42年) |
・4月 :4ドアセダン追加。4速MT(フロアシフト)の「スポーツ」、3速フルオートマチック車(コラム)を設定。 ・7月:マイナーチェンジ。フロントグリルデザイン変更、安全パッド入りダッシュパネルの採用など。 ・10月:豪州バサースト500マイルレースに出場、ワンツーフィニッシュを飾る。 |
1968年(昭和43年) |
・2月:ファストバックスタイルの2ドアクーペ(KB10型)を追加。 ・10月:マイナーチェンジ。フロントグリル、テールランプのデザイン変更など。 |
1969年(昭和44年) |
・8月:一部改良。および上級グレードの「GL」を設定。 |
1970年(昭和45年) |
・1月:フルモデルチェンジ。2代目に移行。 |
【1968 日産サニー(初代)2ドアクーペ】曲面ガラスが多用されたクーペ。セダンとは別もののあか抜けたプロポーションで、カローラに押され気味だった販売も再点火。「デラックス」のモノグレードでスタートしたが、後にセダンと同様に豪華使用のGL(グランドラグジュアリー)が追加される。A10型エンジンは圧縮比の変更などで60psに強化。●全長×全幅×全高:3770×1445×1310mm ●ホイールベース:2280mm ●トレッド(前/後):1190/1180mm ●車両重量:675kg ●乗車定員:5名 ●エンジン(A10型):水冷直列4気筒OHV988cc ●最高出力:60ps/6000rpm ●最大トルク:8.2kg-m/4000rpm ●燃料タンク容量:36L ●最高速度:140km/h ●0-400m加速:18.4秒 ●最小回転半径:4.0m ●トランスミッション:前進4段/後進1段:●サスペンション(前/後):ウィッシュボーン式独立懸架/半楕円リーフリジッド ●タイヤ:5.50-12 4PR ◎新車当時価格(東京地区):50.0万円
クーペはハッチゲートではなく、開閉するのは荷室部分だけ。キャビンと荷室に仕切りはなく、ドライブ中も荷物が取り出せた。5人乗りでも荷室スペースは奥行き780×高さ610mm を確保。サニークーペの成功で、カローラもその2か月後にクーペの「カローラスプリンター」を投入した。
歴代サニープレイバック
【1970-1973 日産サニー(2代目B110型)】排気量で上を行くカローラに対抗し、1.2LのA12型エンジンを搭載。さらに1971年にはSOHCのL14型1.4Lを積む上級志向のエクセレントシリーズも追加された。カローラも大型化/高級化が進み、他社も巻き込み大衆車の高品質競争が激化した。
【1973-1977 日産サニー(3代目B210型)】セダンは当時流行した丸みのあるデザインを採用。ハッチバックとなったクーペは、ケンメリスカイラインにも通じるシャープなデザイン。とくにエクセレントのクーペは丸型3連テールランプを採用、噴射口のような形状から「ロケットサニー」と呼ばれた。
【1977-1981 日産サニー(4代目B310型)】直線基調のデザインに回帰。エクセレントシリーズはスタンザに引き継がれるかたちでなくなり、エンジンは1.2L/1.3L/1.5LのOHV(A型)だけとなった。ボディタイプは当初セダンとクーペのみの設定だったが、1979年にはステーションワゴンの「カリフォルニア」を追加、人気モデルとなる。サニー最後のFRモデルで、レースでも活躍した。
4代目B310 登場から2年遅れの1979年に追加ラインナップされたステーションワゴン「カリフォルニア」。
【1981-1985 日産サニー(5代目B11型)】前輪駆動に変わり、エンジンもSOHCのE型に一新。正式名称もダットサンサニーから日産サニーへ変わる。流行の3ドアハッチバックモデルもラインナップ。1982年に1.5Lターボ車や1.7Lのディーゼル車が追加された。
【1985-1990 日産サニー(6代目B12型)】直線的でシンプルなデザインを採用、「トラッドサニー」の愛称で人気を博す。サニー初のDOHCモデルも追加に。カローラレビンに対抗するように、クーペは「RZ-1」と名付けられ、鉄仮面スカイライン風のグリルが特徴だった。
【日産サニーRZ-1】ベースはセダンと共通だが、スラントノーズや横に張り出したブリスターフェンダーなどを採用することで、セダン系とはまったく異なったスタイリッシュなデザインとなった2ドアクーペ。新たに「RZ-1」というネーミングも与えられた。
【1990-1994 日産サニー(7代目B13型)】ガソリンエンジンはすべてDOHCとなる。クーペ(3ドア)はNXクーペとしてサニーから独立、実質4ドアセダンのみのラインナップに。
【1994-1998 日産サニー(8代目B14型)】ホイールベースを延長し居住性を向上。SRSエアバッグの全車装備など安全装備も充実。スポーツモデルはルキノとして分離された。
【1998-2004 日産サニー(9代目B15型)】国内販売専用モデルとなり、スポーティーな派生モデルもなくなる。ハイパワーの1.6L DOHCや2.2Lディーゼルなどエンジンは豊富に選べた。