「勝てば官軍」カクカク時代に現れた異端児は、「古くて新しいデザイン」で市場を魅了。伝説のパイクカーを解説│月刊自家用車WEB - 厳選クルマ情報

「勝てば官軍」カクカク時代に現れた異端児は、「古くて新しいデザイン」で市場を魅了。伝説のパイクカーを解説

「勝てば官軍」カクカク時代に現れた異端児は、「古くて新しいデザイン」で市場を魅了。伝説のパイクカーを解説

読者のみなさんの中に“パイクカー”というワードを知っているという人はどれくらいいるでしょうか? “パイクカー”というのは、バブル景気に湧く1980年代後半に日産が起こしたひとつのムーブメントです。そのインパクトは自動車業界全体に影響を及ぼして、国内のライバルメーカーだけでなく、フォルクスワーゲンやフィアットなど、世界の主要メーカーにまでフォロワーを生むブームを起こしました。
ここではそのブームを生み出すきっかけとなった「日産・Be-1」について、すこし掘り下げていきたいと思います。

●文:月刊自家用車編集部(往機人)

日産が仕掛けた賭け。テクノロジーか、それとも感性か?

日産・Be-1」は1987年に発売されました。

時代はバブル景気が最高潮を迎える前で、右肩上がりで豊かになる日本の経済に誰もが浮かれていました。

その膨らむ経済のおかげで開発費も潤沢になり、国産メーカーはどんどん新しい技術を開発し、大衆車レベルにまで高性能なメカニズムが採用されて、どこまでもその進化が止まらないと錯覚するくらいの状況でした。

Be-1が発売されたのは1987年。先着順の販売で限定台数は1万台。購入希望者が殺到したことでも知られている。

そんなテクノロジーが牽引する時期に突然現れたのがこの「Be-1」です。

どの車種も新しいメカニズムの搭載をアピールする状況で、その風潮に逆らうような“心地よさ”を前面に押し出したコンセプトのクルマを提案してきたのです。

どうやらこの時期の日産の企画開発チームでは、技術の進化だけでは商品力の維持が難しいという悩みにとらわれていたようです。

めぼしい方向性が見付けられないまま、なんとか解決の光を見出そうと、社内外のデザイン・造形拠点に対し、当時人気を得ていた「ホンダ・シティ」を意識して、同クラスの「マーチ」をベースとしたデザインスタディの提案を投げかけました。

その中で、他とはコンセプトのアプローチが異なる新鮮さを感じる案がひとつ出てきました。それが「Be-1」の元となる案でした。

1985年のモーターショーで話題を集めた「Be-1」。

手掛けたのは社外の服飾系デザイナーを中心としたチームだそうです。

そのデザイン案は、その当時のメインストリームだった直線基調のカクカクしたテイストとは真逆の、ツルンとした優しい丸みを帯びたフォルムに包まれていました。

確かに新鮮な印象の魅力を備えたデザインですが、時勢とはあまりにかけ離れたフォルムと、“心地よさ”というどうにも判断が付かないコンセプトを押し通すのは、当時の日産としては大きな賭けだったようです。

ひとまずその年(1985年)のモーターショーに参考出品して市場の反応を伺うことにしました。
車輌名は、とりあえず元が“B案”だったことから「Be-1」としました。

日産も半信半疑だったのでそんな安直なネーミングで済ますくらいの扱いだったのでしょうが、いざフタを開けてみると、その時の主役車輌だった「MID-4」を上回る反響や問い合わせがあり、開発陣も大きな衝撃を受けたそうです。

その想定外の大きな反響を受けた日産は、市場の熱が冷めないよう「1年以内の販売を目指せ」と開発&生産部門に指令を飛ばしました。

「Be-1」から「パオ」「エスカルゴ」「フィガロ」へと系譜は続く

通常、1年という短い期間で新車種の生産に漕ぎ着けるのはほぼ不可能ですが、まずシャーシやエンジンなどの基本部分はほぼそのまま「マーチ(K10系)」を流用することで開発期間の短縮を図ります。

残るは内外装ですが、まるっきりイチから作ることになるため、その苦労は並大抵ではなかっただろうと想像します。

そうして工夫と努力を込めた結果、なんとか目標期間内に販売に漕ぎ着けることができました。

1987年の1月に発売を発表して予約を開始すると、2ヶ月も経たずに総生産台数の1万台が完売してしまいました。

この好結果に手応えを感じた日産は、間を空けずに“パイクカー”の第2弾「パオ」の開発を始めます。

この「パオ」は「Be-1」を大きく上回るヒットとなり、第3弾「エスカルゴ」、第4弾「フィガロ」へと続きます。

このムーブメントは他社にも大きな影響を与えました。「Newビートル」や2代目「フィアット500」もそのフォロワーと言っていいでしょう。

“パイクカー”という呼び方はこの「Be-1」から始まりました。“パイク”とは英語の“pike”で、槍などの先端が尖ったものという意味で、尖ったクルマというのは、ザックリ言うと“ある目的に特化した方向性のクルマ”という解釈が一般的ですが、日産では“心地よさ”というキーワードを中心に据えて、普段の相棒として気張らずに接することができるクルマに乗って欲しいという、ライフスタイルの提案を込めて企画されたもののようです。(ここの解釈は諸説あるようですが…)

このコンセプトが市場に大きく支持されて、この「Be-1」は生産台数のリミット1万台を即完売するほどのヒットとなりました。

そうして日産の“パイクカー”は市場に大いに評価されて、後継モデルをすぐに企画。他のメーカーも追従するブームを引き起こすのですが、その後にバブル崩壊などもあってブームも長くは続きませんでした。

一時期のブームが去って“パイクカー”はめっきり作られなくなってしまいましたが、国内でその流れは「MITSUOKA」に引き継がれて、今も精力的に新製品をリリースし続けています。

1987年に発売された製品車は、内装を含め、ショーモデルをほぼ忠実に再現し市販された。

ダッシュボード上部は棚、メーターは独立式の丸形スピードメーターを中心に、その左手低い位置にエンジン回転計をレイアウト。ドア部に見えるのはパイプを使ったマガジンラック。

ヘッドレストもドアのインナーグリップも丸い棒を曲げたような形状で統一されている。

「勝てば官軍」の証明。「Be-1」が打ち破った既成概念

先述のように「Be-1」が発表された1980年代後半当時は直線基調のカクカク系デザインが主流でした。
そんな風潮の中で、まるで逆を行くような丸みを帯びたフォルムを提案するというのは、たとえ参考出品とは言ってもかなりの決断を要したことでしょう。

モーターショーの発表を紹介する雑誌の記事でも、当時批判する意見もチラホラありました。

しかし結果は大成功です。“勝てば官軍”ではありませんが、そのデザインとコンセプトが市場の高い評価を得たということで間違いありません。

デザインの点で見ると、全体のふっくらと丸いフォルムや、丸いヘッドライト、ルーフからテールゲートに続く造形や、円を主体としたメーターや、横基調のダッシュボードの構成など、英国の「MINI」の要素がふんだんに採り入れられているのを感じます。

それは、極力不要なディティールを削ぎ落とした無駄の無いクリーンな造形や、各種のランプ類やバンパーなどに見られる定規で引いたような記号的なグラフィックによって、クラシックとは逆のモダナイズを感じたことが要因ではないかと思います。

今あらためてそのデザインを見ると、さすがに80〜90年代のモダナイズなテイストなので少し古くさく感じてしまいますが、こんなテイストのクルマはもう2度と発売されることはないでしょう。

ひと時代を築いたエポックメイキングな「Be-1」に、あらためて敬意を表したいと思います。

エンジンはもちろん、トランスミッションやサスペンションなど走行メカはマーチからの流用。パワステは付かないため、駐車時はハンドルの重さを感じていた。

デビュー時に東京・南青山にオープンした専門店「Be-1ショップ」。翌1988年6月の閉店時までに、関連グッズのみで21億円を売り上げる実績を挙げている。

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