
関東大震災からの復興時に活躍した円太郎バス。T型フォード1tトラックの車台に客室を作ったため乗り心地は酷かったという。評判回復を図りスプリングを入れた改良が行われたり、女性客室乗務員を導入なども行われたという。
●まとめ:月刊自家用車編集部
大震災で脚光を浴びた自動車。その“機動性”が大きな注目を集めた
軍用トラックを別とすれば鉄道の補助的な役割しか果たしていなかった自動車が、大衆からも大きく注目されたきっかけは1923年9月の関東大震災でした。
東京を襲った大地震で、すっかり市民の足として定着していた当時の国鉄や路面電車などの鉄道インフラが壊滅的な被害を受け、自動車の機動性が脚光を浴びたのです。
この震災の時、のちに本田技研工業を興す本田宗一郎は、現在の文京区にある自動車修理工場の修理工見習いでした。下町から燃え広がった火の手から工場で預かった顧客のクルマを避難させるために、17歳にして初めての運転(しかも無免許!)を経験しています。
フォードとGMの日本進出。震災後の需要を商機と捉えた外資
路面電車の復旧には長い時間が見込まれる一方、火災で焼け野原となったことを再開発の好機と考えた当時の東京市は、現在の昭和通りや靖国通りなどの基幹道路をたっぷりとした道幅で整備して、自動車交通が機能する都市を目指しました。同時に、アメリカからT型フォードのトラックシャシーを800台緊急輸入し、バスのボディを載せて運行しました。
T型フォード。ベルトコンベアー方式を導入し、低コストで大量生産に成功した初めての自動車。1908年から1927年まで、実に1500万7033台が生産され世界各国に普及した。
円太郎バスと呼ばれたこの新しいモビリティの活躍は、自動車の利便性を人々に印象付け、フォードとGMはそれを商機と捉えました。1925年にフォードが横浜に、1927年にはGMが大阪にそれぞれ工場を建てて、乗用車とトラックのノックダウン生産(部品を輸入して国内で組み立てる)を始めるのです。
この時代には、オートモ号を世に出した白楊社をはじめとする国産車勢も盛んに乗用車の開発に挑んでいましたが、すでにモータリゼーションが定着していたアメリカの量産車には価格・品質ともにかないませんでした。事実、白楊社は1929年には解散しています。
石橋正二郎と「ブリヂストン」。失敗を乗り越えた挑戦の軌跡
一方、フォードとGM車を中心に日本国内を走る自動車が増えたことで、補修部品の需要が生まれました。先に述べたダンロップや横浜ゴムに加えて、九州で足袋を製造していた日本足袋製造も、1930年にゴム底製造技術を生かしてタイヤの試作に成功しています。現在では世界一のタイヤメーカーとなったブリヂストンが、自動車産業の一員として歩み始めた瞬間です。
ブリヂストン(橋と石!)のブランド名は、この試作タイヤの金型を海外に発注する際に、創業者の石橋正二郎の名から考案されています。
ただし、1931年にブリッヂストンタイヤとして本格的にタイヤ事業に進出して、3年間で42万本のタイヤを出荷したものの、最初は10万本が不良品として返品されるような品質だったといいます。
しかし、その悔しさを糧としてブリヂストンは製品の改良に励み、1932年には日本工場で生産されるフォードとGM車の新車装着タイヤとして納入されるまでになったのです。
兄が社長だった日本足袋製造で正二郎がタイヤ製造への挑戦を提案した時、最初は誰もが止めたといいます。海のものとも山のものとも知れない新事業に、わざわざリスクを負って進出する必要はない、という意見は、今の時代にもよく聞かれることです。
しかし、彼はその意見を撥ねのけて挑み、今日のブリヂストンの礎を築いたのでした。この時代の日本には、失敗を恐れずにチャレンジできる気風が今よりあったのでしょうか。できることなら、正二郎に直接尋ねてみたいものですね。
※本稿は、内外出版社発行「教養としてのニッポン自動車産業史」を再構成したものです。
内外出版社「教養としてのニッポン自動車産業史」紹介サイト→https://jikayosha.jp/2025/10/31/281683/
※掲載内容は公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。
最新の関連記事(旧車FAN)
「ダットサン・フェアレディ1600」がベースのスペシャリティクーペ 初代の「シルビア(CSP311型)」が誕生したのは、いまから60年も前の1965年です。型式名が表すように、ダットサン「フェアレディ[…]
ロータリーエンジンは、CVCCに続いて厳しい排ガス規制にもクリアし、販売台数を着実に伸ばしていった 自由の国、アメリカは、時に油断も隙もない国でもある。オイルショック直後の1973年秋にEPA(合衆国[…]
当時のクルマ造りで最も重要視されたのは”壊れない”ことだった 1950年代に、外国車の見よう見まねで乗用車造りを始めた日本のメーカーと、それを使うユーザーにとって、なによりも重視されたのが“壊れない”[…]
キープコンセプトが、クラウンの宿命だった時代 エクステリアを一見しただけでは6代目と区別が難しい7代目クラウン(MS125系)。数少ない特徴を挙げるならば、きらめくパネルを透明な樹脂で覆ったクリスタル[…]
スバル360の後継モデルとして熱い期待を受けて登場したR-2 1969年8月、てんとう虫の愛称で親しまれたスバル360の後継モデルとして登場したのが、「スバルR-2」。当時のキャッチコピーは “ハード[…]
最新の関連記事(ニュース)
部品供給の不安を解消するべく、新たなサービスをグローバルで展開 「Honda Heritage Works」サービスは、販売終了となった部品を復刻し、グローバルに供給する「Honda Heritage[…]
ジャパンモビリティショーで注目を集めた、未来のクルマを特別公開 会場となるのは、富士モータースポーツフォレストのウェルカムセンター1F展示エリア。 今回の特別展示は、未来のモビリティ社会を体感し、来場[…]
純正チューニングパーツ「BMW Mパフォーマンス・パーツ」装着車を展示 東京オートサロンは、1983年に初めて開催された日本最大級の自動車イベントの一つであり、近年は自動車メーカーも出展するビッグイベ[…]
目玉の「ミゼットX 大阪Ver.」には、ダイハツの地元を象徴する大阪城マークを採用 出展テーマは“わたしにダイハツメイ。小さいからこそできること。小さいことからひとつずつ。”とし、「わたしにぴったり」[…]
BEVでも「走りの楽しさ」は深化できる このモデルはマスタードライバーを務めるモリゾウ(豊田章男会長)の「クルマ屋が残していくべき技術・技能を次の世代に受け継がなければならない」という強い想いのもと、[…]
人気記事ランキング(全体)
給油中に気づく違和感と、キャップを巡る小さなストレス 給油という動作は、慣れてしまえば機械的にこなしてしまう作業だ。セルフ式スタンドの普及で、自らノズルを握る機会は確実に増えた。ところが、燃料キャップ[…]
ショックレスリングとは? 一般の金属とは異なる原子の規則相と不規則相が存在する“特殊制振合金”を採用した金属製のリングで、シート取付ボルトやサスペンションアッパーマウントのボルトに挟み込むだけで、効果[…]
コルドバクルーズが描く“大人二人の贅沢な旅”の世界観 トイファクトリーが送り出す「CORDOBA CRUISE」は、名前からして旅情を刺激する。スペインの世界遺産都市・コルドバの優雅さをモチーフにした[…]
広大なハンドル前のスペースを有効活用 愛車の車内を見渡してみると、うまく活用できそうなスペースが存在することに気づく。「ちょっとした収納とか作れそうな場所があるな…」と。しかし、DIYはちょっと面倒、[…]
受注再開は、2026年夏ごろが有力 カローラクロスは、2025年5月の改良時にフェイスリフトの実施やガソリン車の廃止、スポーティなGRスポーツの追加など、過去最大規模の大きな変更が加えられた。改良前か[…]
最新の投稿記事(全体)
「ダットサン・フェアレディ1600」がベースのスペシャリティクーペ 初代の「シルビア(CSP311型)」が誕生したのは、いまから60年も前の1965年です。型式名が表すように、ダットサン「フェアレディ[…]
部品供給の不安を解消するべく、新たなサービスをグローバルで展開 「Honda Heritage Works」サービスは、販売終了となった部品を復刻し、グローバルに供給する「Honda Heritage[…]
ショックレスリングとは? 一般の金属とは異なる原子の規則相と不規則相が存在する“特殊制振合金”を採用した金属製のリングで、シート取付ボルトやサスペンションアッパーマウントのボルトに挟み込むだけで、効果[…]
給油中に気づく違和感と、キャップを巡る小さなストレス 給油という動作は、慣れてしまえば機械的にこなしてしまう作業だ。セルフ式スタンドの普及で、自らノズルを握る機会は確実に増えた。ところが、燃料キャップ[…]
MAZDA CX-3 XD Vivid Monotone Ⅱ グレードを整理することで、選び方がシンプルに 今回の機種体系変更では、好評な装備を追加したほか、ラインナップをガソリンモデルの「15S U[…]
- 1
- 2



















