「二流扱いだった日本車」そのイメージをくつがえして米国で愛された和製スポーツカー【名車探訪Vol.13】

1960年代、国内自動車メーカーは対米を中心に輸出を開始していたが、日本車はまだ世界では二流のクルマという扱いだった。営業畑一筋から米国に渡り、北米日産の初代社長となった片山は、当時1万ドル以上と高嶺の花だったスポーツカーなら、そんな日本車の評価を一変できると考えた。ポルシェと遜色ない性能を備え、価格はその半値以下(約3600ドル)で「240Z」が1969年にデビュー。1978年までの10年間で国内外総販売台数は約55万台(うち国内は8万台)。世界で最も売れたスポーツカーとなった。

●文:横田晃

フェアレディ240Z-L(1971年式)
これまでの4バルブDOHCを積む432に加えて、対米輸出から2年遅れて日本でも発売となった2 4 0 Z は、2.4L SOHCエンジンとのバランスの良さから高い人気を誇ったモデルだ。Z-Lは装備充実グレード。

主要諸元 フェアレディ240Z-L(1971年式)
●全長×全幅×全高:4115㎜×1630㎜×1285㎜●ホイールベース:2305㎜●車両重量:1005㎏●エンジン(L24型):水冷直列6気筒SOHC 2393㏄ ●最高出力:150PS/5600rpm ●最大トルク:21.0㎏・m/4800rpm ●最高速度:205㎞/h●最小回転半径:4.8m●燃料タンク容量:60ℓ ●サスペンション:前後ストラット式●ブレーキ:前ディスク/後ドラム●トランスミッション:5速MT●タイヤサイズ:6.45-14-4PR●乗車定員:2名 ◎新車当時価格:135万円

フェアレディ240Z-G(1971年式)
240Z-Gは上級グレードに位置付けられ、FRPのGノーズとヘッドライトカバー、オーバーフェンダーを持ち、ノーマルグレードから25㎏重いにもかかわらず、向上した空力により最高時速は432と同じく210㎞/hを誇った。

フェアレディ240Z-G 主要諸元 
●全長×全幅×全高:4305㎜×1690㎜×1285㎜●ホイールベース:2305㎜●車両重量:1010㎏●エンジン(L24型):水冷直列6気筒SOHC2393㏄ ●最高出力:150PS/5600rpm ●最大トルク:21.0㎏・m/4800rpm ●最高速度:210㎞/h●0-400m加速:15.8秒●最小回転半径:4.8m●燃料タンク容量:60ℓ ●サスペンション:前後ストラット式●ブレーキ:前ディスク/後ドラム●トランスミッション:5速MT●タイヤサイズ:175HR-14●乗車定員:2名 ◎新車当時価格:150万円

情熱と創意工夫で一歩一歩進化していった日産のスポーツカー開発

スポーツカーは、自動車メーカーにとっては悩ましい商品だ。自社のブランドイメージを向上させる看板としては魅力的だが、儲けにはならない。高度な技術を投入すれば当然コストがかかる一方で、どう頑張っても実用車ほどには売れないのが目に見えているのだ。フェラーリやポルシェのようなブランド力のある専業メーカーの少量生産車なら高い値付けでも売れるが、薄利多売がビジネスモデルの日本の量産メーカーが、苦手とする商品企画なのである。

それをモノにするためには、作り手の情熱や見識に創意工夫、さらに時代の後押しも必要だ。1969年に登場して、主に北米市場で大ヒットとなり、その後の日本車への評価さえ一変させた初代フェアレディZ(S30系)は、それらがすべて揃うことで生まれた、奇跡のような一台だった。日産は、1954年に開催された全日本自動車ショー(東京モーターショーの前身)に、トラックに使われていたフレームに手作りのオープンボディを載せた、戦後初のスポーツカーとなるDC-3を展示。1959年には、ダットサン210型のフレームにFRP製のボディを載せたS211型を発売している。

ただし、当時の自動車産業の儲け頭だったトラックや、ようやく軌道に乗りつつあった乗用車と較べると傍流だ。そもそもS211型は当時、新素材として注目されていたFRPの用途を探るために、大学からの依頼で開発した実験的なプロジェクトだったという。まだまだ性能も品質も稚拙だったが、S211を鋼板ボディ化したS212型を、当時ダットサン210やトラックの輸出が始まったばかりの北米市場に出してみると、少しずつ販売台数を伸ばした。そのころに、ブロードウェイで鑑賞したミュージカル「マイ・フェアレディ」に感銘を受けた川又克二社長によって命名されたのが、フェアレディ(当時はフェアレデーと表記)の名だ。

1962年には初代ブルーバード、310型がベースのSP310型1.5Lとなり、1967年には同じボディにセドリック用の2L4気筒145PSを積んだSR311型フェアレディ2000まで進化した。その跡を継いだフェアレディZが、新型セドリックのエンジンやスカイラインのブレーキ、ローレルのフロントサスなど、既存車種の部品を巧みに組み合わせることで手頃な価格を実現していたのは、ある意味では伝統芸とも言えた。発売当時のベーシックグレードの国内販売価格は93万円。北米市場では3596ドルからで、いずれも破格の安値だったのだ。

社内では少数派だったスポーツカー好きの情熱が生んだZ企画

日産は、1914年に日本初の国産乗用車、脱兎号を生み出した快進社にルーツを持つ。その意味では自動車に魅せられたエンジニアのDNAを受け継ぐが、Zの開発当時の川又社長は銀行出身の合理的な経営者。ことさらスポーツカーへの情熱に理解があったわけではない。

しかし現場には、スポーツカーを夢見て自動車メーカーに入社した人々も数多くいた。宣伝課員として1935年に入社した片山豊氏や、1959年に入社した若手デザイナー、松尾良彦氏らはその代表だ。片山氏は、自動車業界振興のためのイベントとして全日本自動車ショーの開催を呼びかけた人物でもある。先のDC-3も、その話題作りの一環として、彼が作らせたスポーツカーだった。

彼は1960年に市場調査を命じられて渡米すると、現地法人を設立。その土地の実情に合ったモデルやサービスを提供することをトップに進言。さらに設立された米国日産の社長に1965年に就くと、「この市場で成功するためには、デトロイトが作っていない、高性能で快適な小型スポーツカーが必要だ」と本社に強く要望した。

本社ではそのころ、松尾氏がSR311後継車の先行デザインを始めていた。メカニズムは、本来はバキュームカーなどの特殊車両を担当する第三設計課が検討しており、ともに片山氏の意見に強く賛同した。ただし、この段階では具体的な企画ではない。話が動きだすきっかけは、1966年のプリンス自動車との合併だった。プリンスが開発したR380用の2L直6DOHCを何に積むか検討される機会に、スポーツカーの開発を夢見ていた彼らは「次期フェアレディこそ、それにふさわしい」と温めていた企画を役員会に諮り、見事に通したのである。

開発記号はたまたま空いていたZ。それを片山氏は気に入り、自身が好きだった旧日本海軍の信号旗、ミニチュアのZ旗を送ってチームを応援した。その意味は全員奮励努力せよ=がんばれ!」。そうしてフェアレディZの名は、片山氏と松尾氏が狙った通りのデザインとともに決まったのだ。

発売されたZは、国内はもちろん、とくに北米市場で爆発的な人気を博した。国内向けの2Lに対して2.4Lに拡大された直6エンジンは、軽量コンパクトで流麗なボディを軽々と走らせ、「ポルシェの半値で同等の性能」と評された。以後、毎年5万台前後という空前の売れ行きを見せる。北米で片山氏は「Zの父」と呼ばれ、1998年に米国の自動車殿堂入りを果たしたほどの人気だった。

排ガス問題や急速な円高、歴史の流れに翻弄されて変貌を余儀なくされたZ

日産のレース活動にも、片山氏は貢献している。彼が入社した1936年には、750㏄エンジンに英国製のスーパーチャージャーを装着したスーパーダットサンが国内のレースで優勝するなど、日産にはもともとモータースポーツへの取り組みはあった。ただし、川又氏を始めとする戦後の経営陣は、必ずしも熱心だったわけではない。しかし、根っからクルマ好きの片山氏は宣伝課員としてモータースポーツの宣伝効果を力説。1958年にはオーストラリア一周ラリーに2台のダットサンを送り込み、クラス優勝と同4位を獲得して世界に日産の名を広めたのだ。1963年の第一回日本GPでは、SP310型フェアレディが輸入車を抑えて優勝。1964年の第二回でプリンススカイラインGTがポルシェ904を一周だけだが抑えてトップを走ったことで、日本のモータースポーツ熱は最高潮を迎えた。海外でも、1966年にはサファリラリーでブルーバード410型がクラス優勝。1970年には、ブルーバード510型3台が1-2-3を飾って完全優勝をも果たしている。

フェアレディZはその翌年のサファリラリーに早くも登場。1-2フィニッシュを決めるのだ。ただし、プリンスが開発し、スカイラインGT-Rに積まれて日本のサーキットでは無敵を誇った例のDOHCは、432を名乗ったフェアレディZでは活躍することができなかった。もともと180PSを絞り出しながら、じゃじゃ馬過ぎて160PSまでデチューンされたそれは、アメリカの豪快なサーキットレースや欧州のタフなラリーでは神経質すぎた。シンプルなメカで部類の耐久性を誇ったSOHC2.4Lを積む240Zのほうが扱いやすく、フェアレディZとの相性も良かったのだ。商品企画を通す上では重要な役割を演じたS20型エンジンは、そうして短命に終わってしまった。

東アフリカサファリラリー(1971年)
1970年に総合優勝したブルーバード510をあっさりと捨て、日産はその翌年の1971年、240Zでサファリに参戦。深紅のボディに黒いボンネットの4台の240Zはポルシェやプジョーを抑え1-2フィニッシュを飾る。

一方、激動の1970年代は、フェアレディZの立ち位置にも大きく影響した。1971年の為替自由化で、それまで360円だった円/ドルレートは急速に円高に振れ、値上げを余儀なくされた。1972年のオイルショックで燃費のいい日本車が注目されたことで一時はしのいだが、続く排ガス規制ではパワーダウン対策に排気量も拡大され、2.4Lは最終的に2.8Lまで肥大した。その後も円高は続き、気がつけば北米でのフェアレディZは登場当時より2クラス上の価格になってしまった。結果、モデルチェンジのたびに豪華・高級路線に走らざるを得なくなり、初代とは違うクルマへと変貌していったのだ。

フェアレディZ432(1971年式)
スカイラインGT-Rに積まれたS20型2L DOHCエンジンが搭載されたZ432だが、じゃじゃ馬すぎるそのエンジンとの相性が良くなかったため、160PSにデチューンされた。

フェアレディZ432(1971年式)
●全長×全幅×全高:4115㎜×1630㎜×1290㎜●ホイールベース:2305㎜●車両重量:1040㎏●エンジン(S20型):水冷直列6気筒DOHC1989㏄ ●最高出力:160PS/7000rpm ●最大トルク:18.0㎏・m/5600rpm ●最高速度:210㎞/h●0-400m加速:15.8秒●最小回転半径:4.8m●燃料タンク容量:60L ●サスペンション:前後ストラット式●ブレーキ:前ディスク/後ドラム●トランスミッション:5速MT●タイヤサイズ:6.95-14-4PR●乗車定員:2名 ◎新車当時価格:185万円(マグネシウムホイール付)

彫りの深い造形のダッシュボードまわり。若干運転手側に向けて取り付けられた小メーターは右から水温/油温計、電流/燃料計、油圧計の順。

黒で統一されたインテリア。ヘッドレスト一体型バケットシートはリクライニングも可能。

S20型エンジンは1気筒あたり4バルブを持つ直6DOHCエンジン。

エンジン回転計と速度計。回転計は1万回転、速度計は240㎞/hまで刻まれる。

センターコンソールに設置された3連メーター。左から時計、バッテリー電圧計&燃料計、そして水温計&油圧計。

オーバードライブ付きの5 速ミッションはウッドノブを採用する。

初期型ではシフトレバー後方にチョークレバーとスロットルコントロールレバーが装備されていた。チョークはエンジン始動時、スロットルコントロールは暖機運転時などでエンジン回転数を維持するときに使用する。

ボンネットフードの左右に別個に設けられた補器類のメンテナンス用カバー。運転席側にはウインドウウォッシャーのリザーバータンク、助手席側にはバッテリーが設置されている。

初代フェアレディZ(S30)の変遷

1969年
S30型発売。Z、Z-L、Z432を設定。
1970年
Z-Lに3速AT追加。SOHC車、DOHC車ともにレギュラーガソリン仕様追加(出力/トルクは125PS/16.5㎏・mと155PS/17.6㎏・m)。
1971年
フェアレディZにも3速ATを追加し、マイナーチェンジ。240Z国内販売開始(240Z、240Z-L、オーバーフェンダーとエアロダイナノーズの付いた240Z- Gの3タイプ)。
1973年
2Lモデルマイナーチェンジ。Z432シリーズ、240Zシリーズの国内販売終了。
1974年
2by2を追加。輸出モデルは240から260Zへ。
1975年
50年排ガス規制を受け、2L車はSUツインキャブからEGIへ変更。輸出モデルは260から280Zへ。
1976年
パワーウインドウやアルミホイール標準装備の最上級Z-Tを追加。
1978年
S130型へフルモデルチェンジ。

時代をリードしてきたフェアレディZ ヒストリー

初代(S30型)1969年〜1978年
開発当初から他車との部品共通化で原価を安く抑えることを目指した初代Z。とりわけブルーバード510とはシャシーをはじめ多くの共用関係にあった。

2代目(S130型)1978年~1983年
先代のヒットを受け、極力デザインを変えずにボディを大きくして登場。’80年に追加された「Tバールーフ」を改造したTVドラマ「西部警察」のスーパーZも人気になった。

3代目(Z31型)1983年~1989年
上下に動いて消点灯する「パラレルライジングヘッドランプ」を採用。全車にV6エンジンを搭載(後に直6も設定)し、プラザ合意による円高もあって海外での価格は急上昇。

4代目(Z32型)1989年~2000年
「スポーツカーに乗ろうと思う」のキャッチコピーも話題に。フラッグシップのV6・3ℓツインターボ車は国産で初めて280PSに到達し、馬力自主規制のきっかけをつくった。

5代目(Z33型)2002年~2008年
新社長カルロス・ゴーンのもと2年間の空白期間を経て復活。2シーターのみでTバールーフ車もなくなった(後にロードスターを追加)。エンジンは3.5LのNAが積まれた。

6代目(Z34型):2008年~2021年
3.7Lエンジンを積み、国外では「370Z」として販売。33型に比べホイールベースは100㎜短縮し運動性能を向上した。日本市場向けロードスターは2014年に生産を終了。

7代目(RZ34型):2022年〜
R34型のプラットフォームを踏襲しつつ、全面的に一新されたのが現行RZ34型。