「すぐにでも造ってほしい」、1994年の東京モーターショーに出品された〝ヴィークロス〞は予想を超える反響を巻き起こした。ジェミニベースのコンパクトなシャシーにSUVの常識をくつがえす斬新でスポーティなデザイン。アルミやカーボンをふんだんに使った軽量な3ドアボディ、1.6L直噴にスーパーチャージャーをドッキングさせたエンジンなど、それはまさにクロカン4WDとスポーツカーのクロスオーバー
だった。乗用車部門を縮小していたいすゞだが、市販化プロジェクトはすぐにスタート。その開発はショーモデルのデザインやコンセプトを忠実にトレースし、いすゞの先端技術の結集に多くの時間が使われた。プロジェクト発足から18か月、「Vehicle」「Vision」「Cross」を合わせ「ビークロス」と名付けられたクロスオーバーSUVは、その斬新なデザインと俊敏な走りで、熱狂的なマニアを生む一方、わずか1751台(国内)で販売を終了した。
●文:横田晃(月刊自家用車編集部)
絶賛されたデザインは、117クーペと同じく量産化には不向きだった
モーターショーに出展される華やかなコンセプトカーには、いくつかの異なる狙いがある。研究開発中の最新技術やデザイン案を盛り込んで、近未来に自社製品が目指す方向を示すのが、いわばコンセプトカーの王道。「近々こんなクルマを作りたいんですが、みなさんどう思いますか?」と商品企画の成否を市場に問う、リサーチ用のモデルも大きな勢力だ。
各社の技術と市場調査力が向上し、狙いをほとんど外さなくなった最近では、じつはすでに完成している新型車をデフォルメしたモックアップで、「もうじきこんなクルマが出ますよ」と話題を喚起する広告塔の役割を担うコンセプトカーも増えている。
絵になるコンセプトカーは自動車雑誌を始めとするメディアでも大きく取り上げられ、「市販が待ち遠しい」などと持ち上げられるのが通例だが、その評価と売れ行きは別物。記憶には強く残るものの、経営には貢献してくれずに終わるクルマも少なくない。1993年の東京モーターショーにコンセプトカーの「ヴィークロス」として出展され、1997年にほとんどそのままの姿で市販されて話題を呼んだいすゞの「ビークロス」も、そんな経緯を辿ったモデルだ。
ショー会場でマスコミのストロボを浴びたヴィークロスは、日本最古級の自動車メーカーである、いすゞが戦前から作り続けた大型車や軍用車の血も引く最強のオフロードカーの個性と、117クーペやベレットといった戦後の乗用車で高く評価されたスポーティな走りとデザインを融合させた、今でいうクロスオーバーSUVの走りといえる企画だった。
のちに日産のデザイン部長となる中村史郎が率いるチームで、実際に造形を手掛けたのはベルギーに置かれたいすゞの欧州デザインセンターに所属していた英国人のサイモン・コックス。発表から30年近くを経た現在でも古びることのないオリジナルデザインは素晴らしかったが、その造形は量産にはまるで向いていなかった。
しかし、いすゞの開発陣はショーでの反響に背中を押されて、1997年に市販に漕ぎつける。半ば手作りに近い工程を経てラインオフしたビークロスは、業界を驚かせ、ファンを唸らせた。ただし、国内での販売期間はわずか2年。販売台数はたったの1751台。ビークロスは経営再建のために1993年に小型乗用車の自社開発・製造を中止し、2002年には乗用車事業自体から完全撤退するいすゞ開発陣の「最後の作品」として、見る者に強い印象を残して舞台を駆け抜けて行ったのだった。
熟練職人による手仕事によるもの。ほとんど利益がでないといわれた価格設定
ヴィークロスが出展されたのと同じ1993年の東京モーターショーに、トヨタはRAV4のプロトタイプを展示し、翌年に発売している。ホンダは1995年にCR-Vを発売。ビークロスが世に出る1997年には、トヨタが初代ハリアーを送り出して、いずれも世界的な大ヒットにしている。
それらは外見こそ伝統的なオフロード4WD車のエッセンスを備えていたが、中身はカローラやシビック、カムリなどの乗用車のプラットフォームを使った、フレームを持たないモノコックボディ。乗り味やハンドリングもオンロードをメインとした、純然たる乗用車に仕上げられていた。保守的な海外のメーカーはそのような商品企画に当初は懐疑的だったが、市場でのヒットを見てあわてて後を追うことになる。今や世界中のメーカーが、オフロード性能は二の次のオンロードSUVを競って発売している。
コンセプトカーとして展示されたヴィークロスも、当時のFFジェミニのプラットフォームを使い、4輪ダブルウィッシュボーン式サスペンションを備えた、悪路も走破できる全天候型スポーツカーという乗用車寄りの企画だった。搭載されるエンジンも、ジェミニ用の1.6Lをベースとしたスーパーチャージャー付きのガソリン直噴という、乗用車指向のメカニズムが想定されていた。
しかし、残念ながら当時のいすゞには、量産して初めて意味のあるその企画を実現させる体力が、すでになかった。そもそも、ベースとなる乗用車のプラットフォームの開発から撤退していたし、商用車専業メーカーとなったいすゞには、直噴ガソリンエンジンはもはや必要がないアイテムだった。
それでも作品を世に出そうと、開発陣は小型乗用車撤退後の主力商品となったオフロードカー、ビッグホーンのフレームやエンジンを使い、かつて117クーペの製造でも活躍した熟練職人による手仕事で、鋼板と樹脂を合体させたボディの製造に挑んだ。そうした事情から、ボディをプレスする金型も高価な量産用ではなく、せいぜい数千ショットしかもたない試作車レベルの物。だから2000台足らずの国内販売台数は、計画通りともいえた。
結果としてその半手作りの生産体制のおかげで、手塗りによる25色ものボディカラーや、開発コードに合わせたわずか175台の最終限定車などのコレクターズアイテムを生むこともできた。オイル室別体式ショックアブソーバーなどの高度なメカニズムも、だからこそ採用できたのだ。
乗用SUVを目指しながら、RAV4やハリアーにはなれなかったビークロス
セダンやクーペといった普通の乗用車が市場の主役だった時代には、メーカーの技術力の優劣が、そのまま商品力に直結することが多かった。高性能なエンジンや敏捷なハンドリングの開発力が、売れ行きにも直結したのだ。
しかし,成熟した市場では、そうした絶対的な性能が、必ずしも成否にはつながらない。走行性能ではセダンにかなわず、悪路走破性では本格オフロード車の足元にも及ばないオンロードSUVがベストセラーになる今日の状況は、それを物語っている。日本ではスポーツという言葉が競技や体育に近いアスレチックなニュアンスで使われるが、本来のスポーツという英単語は、いわゆるフォーマルシーン以外のすべての領域を指す。チェスも散歩も日曜大工もスポーツ。オンタイムに対するオフタイムぐらいの感覚だ。だからSUV=スポーツ・ユーティリティ・ビークルという言葉も、フォーマルなセダンに対する「遊び用車」ぐらいが正しい語釈だろう。速さや走破性の優劣で価値が決まる「体育会系」ではない。
だからこそ、その商品力を決するのは、必ずしも高度な技術ではなく、使い手が求めるエッセンスをいかにバランスよく盛り込むかという、まさに商品企画力になる。キュートな3ドアボディでフレッシュなデートカーを表現した初代RAV4や、ミニバンを思わせるフラットフロアで広さを訴求した初代CR-V、下界を見下ろすような優越感で新感覚の高級車を感じさせた初代ハリアーも、既存の価値観とは異なる、新しい時代のSUVの魅力をプロデュースしたことで売れたのだ。
ビークロスも、コンセプトカー段階の企画通りに乗用車のプラットフォームを使い、いすゞらしくオフロードを安心して走れる堅牢さや走破性とオンロードでの快適なスポーツ性を両立させることができれば、デザインの魅力と相まって成功できたかもしれない。
しかし、大きく、重い本格オフロードカーのフレームとV6エンジンを使うしかなかったビークロスには、RAV4やCR‐Vの後を追うことはできなかった。スタイリッシュなフォルムと引き換えに、ファミリーユースには向かない大きな3ドアボディ。本格ラリーレイドで通用する走りを求めた結果、悪化した乗り心地。既存車のパーツを流用してコストダウンに務めたものの、原価割れともいわれる295万円の価格。
作り手の意地が詰め込まれたビークロスだったが、乗用車市場を縮小していったいすゞの逆転の切り札とはならなかった。
エアバッグ内蔵、本革巻きのMOMO社製のステアリングホイールを採用
フロントシートは、レカロ製のシートが標準装備
ビッグホーンに搭載された3.2L V6(6VD1型)エンジンを専用チューン
視認性の悪かったリアビュー用にバックアイカメラが標準装備
足回りは、モノチューブ型ショックアブソーバーを採用し、スポーツ志向を追求
ビークロスの変遷
1993年 |
10月 第30回東京モーターショーにコンセプトカー「ヴィークロス」を出品。車名の由来は、Vehicle(乗り物)とVision(未来像)とCross(交差)を合わせた造語。 |
1997年 |
3月 ビークロス発表、発売は4月。 10月 1997-1998日本カー・オブ・ザ・イヤーの特別賞を受賞。 11月 基本の5色に特別色20色を加えたプレミアムカラープロデュース25をオプション設定。 |
1999年 |
2月 国内販売終了に伴い、最終限定車「175リミテッドエディション」を175台限定で発売。 |
2001年 |
1月 総販売台数(国内)わずか1751台で販売終了。北米仕様は2002年まで販売を継続。 |