[懐かし名車旧車] トヨタ スポーツ800:航空機造りのノウハウが注がれた、壮大なる実験車

1962年の第9回全日本自動車ショーで試作車・パブリカスポーツが絶賛されると、トヨタ自販はパブリカの増販につながると自工側に市販を提案する。当初は目的でなかった市販化にあたり、主査の長谷川龍雄氏は設計を見直し、特徴的なスライドキャノピーとサンドウィッチ構造のフロアを断念。コンベンショナルなフロアに乗降用のドアが付けられることとなった。しかし空力に優れた流線型のボディは試作車の面影を残し、フロアやトランクリッドにアルミを使うことで圧倒的な軽量化も確保。「ヨタハチ」の愛称で親しまれたスポーツカー「スポーツ800」は、国内レースでモンスター級の高回転高出力エンジンを誇ったホンダS600と好勝負を繰り広げた。

●文:横田晃(月刊自家用車編集部)

トヨタ スポーツ800 前期型[1965-1968年]

昭和43年(1968年)3月のマイナーチェンジ以前のモデル。ボディ塗色はセミノールレッドとアメジストシルバーメタリックの2色。ルーフはともにダークグレー。シルバー色には赤のシートが組み合わされた。発売の翌年には若干の値下げが行なわれ、東京地区価格は59万2000円となった。

【トヨタ スポーツ800 前期型(1965年)】主要諸元●全長×全幅×全高:3580×1465×1175mm ●ホイールベース:2000mm ●車両重量:580kg ●乗車定員:2名 ●エンジン(2U型):水平対向2気筒790ccツインキャブ ●最高出力:45PS/5400rpm ●最大トルク:6.8kg-m/3800rpm ●最高速度:155km/h ●0-400m加速(2名乗車):18.4秒 ●燃料消費率(平坦舗装路):31.0km/L ●最小回転半径:4.3m ●燃料タンク容量:30L ●トランスミッション:前進4段/後進1段 ●サスペンション(前/後):ダブルウィッシュボーン式独立/半楕円非対称板ばね ●タイヤ:6.00-12 4PR ◎新車当時価格(東京地区):59.5万円

前期型(写真)のメーターリングは、アルミの素材を活かした光沢のあるシルバーリングだったが、後期型は防眩対策面から黒色の塗装が施された。さらに、明るすぎて「光るダッシュボード」と揶揄されたメーターパネルの金属板の色も変更。スピードメーターはMAX180km/hスケールでトリップメーター付き。当時の試乗記には「前方視界は素晴らしく良いが、後方視界はすこぶる悪い」と書かれていた。

操作系名称:[A]シガレットライター [B]バックミラー [C]ワイパーノブ [D]チョークノブ [E]イグニッション&スターター [F]ライティングノブ [G]マップランプスイッチ [H]マップランプ [I]タコメーター [J]ハイビームインジケーターランプ [K]油圧計/油温計 [L]ホーンボタン [M]ターンシグナルインジケーターランプ [N]トリップメーター付きスピードメーター [O]ターンシグナル&ディマースイッチレバー [P]トリップメーター巻き戻しノブ [Q]チャージランプ [R]アンペア計(上)/燃料計(下)

ローバックのバケットシートは前後120ミリのスライドが可能。後期型は2点式から3点式シートベルトにグレードアップされている。

エンジンはパブリカのU型水平対向2気筒697cc エンジンをボアアップし、ツインキャブを装着した2U型790ccを搭載。最高出力はわずか45馬力。大パワーをウリにするそれまでのスポーツカーとは違い、その燃費の良さも自慢とした。ちなみにトヨタスポーツ800は3131台が生産され、そのうち428台が沖縄(当時は米国)などに輸出されているが、エンジンは2U型のままである。

当時のオープンスポーツとしては希有なフレームレスのモノコックボディ。リヤピラーは万一の場合のロールバーとしての機能を担う。重いバッテリーを中心近くに載せるなど、重量バランスも考慮した設計だった。

パブリカとカローラの狭間で生まれたスポーツカーの企画

全力で取り組んだ仕事の成果が、思ったように出ないことがある。渾身の新企画が、上司に理解してもらえないことも。やけ酒をあおって「どうしてわかってくれないんだ」と悔し涙を流した経験を持つ人は、少なくないだろう。

トヨタで初代パブリカを開発し、のちに世界的ベストセラーとなるカローラを生む長谷川龍雄主査が、パブリカの発売後に味わっていたのもそんな苦境だった。

1955年に明らかになった通産省(現・経済産業省)の国民車構想以前から開発に着手していたパブリカは、当初は500ccのエンジンを積み、トヨタ初の前輪駆動方式で開発が進められていた。しかし、市販型の開発責任者に任命された長谷川は、当時建設が始まっていた高速道路を余裕を持って走行するために、空冷水平対向エンジンの排気量を700ccに拡大。技術的に未完成だった前輪駆動を諦め、オーソドックスなFR方式として発売にこぎつけた。それでも、当時考えられるかぎりの理想を追求し、庶民にも手の届く価格を目指してコストダウンを徹底していたのは、トヨタらしいと思える美点だ。

1961年6月の発売時点では、大衆車の決定版と喧伝されていた。ところが、残念ながらそれは思ったほど売れなかったのだ。軽自動車並みの価格を実現するために、モールなどの飾りを最低限に抑えた外観は、庶民のマイカーへの憧れを満たすには質素に過ぎた。

必要最低限の装備しかない室内も同様だ。似たような予算なら、パブリカに対抗するために豪華な内外装が与えられた軽自動車の方が、当時の人々には魅力的な選択肢に映ったのである。その反省から、デックス仕様やコンバーチブルなどのバリエーションを開発投入する一方、長谷川はより上級のコードネーム179Aと呼ぶ新型車の商品企画を会社に提案する。しかし、それはあっさりと蹴られてしまったのだ。

長谷川の企画した1Lクラスの新型車=カローラは、上級すぎて既存のコロナと共食いになる。それよりも次期パブリカをもう少し上級移行することを考えよ、というのが、経営陣からの回答だった。

そこで長谷川が腐っていたら、カローラはこの世に誕生していなかった。諦めきれない彼は当時のトヨタ自動車販売の神谷正太郎社長に直談判して、企画を通す。最初の提案が経営会議で蹴られたのが、1964年春。そして大逆転でカローラ専用の高岡工場の建設が決まったのが1965年春のことだ。そのてんてこ舞いの最中となる1965年4月に発売されたのが、パブリカから生まれたスポーツカー・トヨタスポーツ800だった。

空力に優れた軽量ボディは、ライバルとは違ったアプローチから生まれた

パブリカのバリエーションを増やすことで、販売増を目指すことは全社的な方針だったが、その中に最初からスポーツカーが入っていたわけではない。パブリカのボディ上部を切り落とした形のコンバーチブルはともかく、パブリカとは似ても似つかない造形のスポーツ800は、一から型を起こしたまったくのニューボディだ。 

パブリカのテコ入れとカローラの企画の煮詰めを同時に進めていた長谷川には、もう1台のクルマを白紙から開発する暇はまったくなかったし、会社としてもそこまでは求めていない。じつはスポーツ800は、そうした正規の事業計画や業務命令とは違うプロセスから始まった企画だった。

長谷川は、東京帝国大学(現・東京大学)航空学科卒で、戦時中は立川飛行機に在籍。20代の若さで高高度迎撃機キ-94の設計主任を務めた俊英だ。戦後の自動車産業には、彼のように大空を目指しながら、敗戦で翼をもがれた航空機エンジニアが数多くいた。パブリカの販売不振という鬱屈を抱えながらテコ入れ策に駆け回る中、長谷川はトヨタ車の開発/生産受託などを手がけていた関東自動車工業(現・トヨタ自動車東日本)で、同じ航空機エンジニア出身の幹部と意気投合する。

戦争の是非はともかく、軍からの潤沢な予算で理想の航空機開発に邁進できた時代を懐かしく振り返るうちに、航空機技術をクルマにいかに盛り込むかという実験的な挑戦に話が及んだのだ。燃費と運動性能を両立させるための空力特性の追求。軽く、丈夫な機体を造るための構造や素材。欧米と比べるとまだまだよちよち歩きだった当時の日本のクルマ造りには、航空機から応用できそうな技術がたくさんあった。

そうした技術の実験台として、彼はパブリカのメカニズムを使ったスポーツカーの企画を思いつき、それを関東自動車工業が中心となって開発/試作するプランを会社に認めさせたのだ。もちろん、長谷川は仕事の合間を縫っては開発現場に顔を出し、さまざまなアイデアを出しながら、小さなスポーツカーの開発を楽しんだ。

そうして完成した、航空機のようなキャノピーを備えた試作車をパブリカスポーツの名で1962年の全日本自動車ショーに出品すると、大きな反響を呼んだ。当初は純粋に実験車だったが、営業サイドからの要望もあり、その市販化はとんとん拍子に決まる。ただし、長谷川はパブリカの名を冠することはせず、「トヨタ スポーツ800」の名で、1965年4月に発売されたのだった。

パブリカ用の空冷水平対向2気筒エンジンを800ccまで拡大し、ツインキャブを与えたエンジンは、当時のグロス表示で45ps。DOHC4気筒という当時としては驚異的なハイメカニズムを誇ったライバル・ホンダS600の57psや、その後継モデルとなるS800の70psと比べると、大人と子供ほども違うスペックだ。

船橋サーキットのこけら落としとして開催された1965年全日本自動車クラブ選手権で、浮谷東次郎が駆るトヨタ スポーツ800 。一時接触して16位まで順位を下げた浮谷はその後鬼神の追い上げを見せ、大逆転優勝を飾る。

ライバル・ホンダS800とのパワー差を埋めたのは、軽量ボディと機敏なハンドリング、そして驚くべき低燃費だった

しかし、長谷川が持てる航空機技術を駆使して作り上げたわずか580kgという軽量コンパクトな空力ボディは、トヨタスポーツ800に機敏なハンドリングと驚くべき低燃費を与えていた。それを証明して見せたのが、1965年7月に船橋サーキットで開催された第1回全日本自動車クラブ選手権レースでの初優勝だ。トータルで1時間足らずのこのレースで、トヨタの準ワークスチームと言えるTMSC(トヨタモータースポーツクラブ)から参戦した浮谷東次郎選手の駆るスポーツ800は、6週目に生沢徹選手のS600との接触でピットイン。最後尾に沈みながら、タイトコーナーの続く船橋のコースで目の覚めるような走りを見せ、25周目にトップへと返り咲くと、そのままチェッカーを受けたのだ。

残念ながら浮谷東次郎選手はそのわずか1か月後、鈴鹿での練習中に無念の死を遂げた。しかし、スポーツ800のレースでの快進撃はその後も続いた。翌1966年1月に開催された日本初の耐久レース・鈴鹿500kmには、スポーツ800は特製の69Lガソリンタンクを搭載して出走。ライバルのホンダS600が給油やエンジントラブルでもたつくのを尻目に、無給油/ノートラブルで4時間11分45秒7でを走り抜き、総合で1-2位を占めた。排気量やパワーでははるかに格上のスカイライン2000GT/ロータス エラン/フェアレディなどを退けての完全優勝だ。しかも、燃料タンクにはまだ10L近いガソリンが残っていたという。ノーマルでは最高155km/hという性能とはいえ、専用セッティングを施したレースでの全開走行でも、リッター10km近い燃費を叩き出して500km を走り抜いたのだ。ちなみに、この時優勝したカーナンバー2番のスポーツ800のドライバー、細谷四方洋選手は、当時まさに開発が進められていた、かのトヨタ2000GTの開発ドライバーも務めた人物だ。

スポーツカーの価値は、最高出力や最高速では決まらない。スポーツ800で長谷川が示したその真実は、それから半世紀を経た現代でも、トヨタ86やマツダロードスターに受け継がれている。

【トヨタ スポーツ800 後期型(1968年)】後期型に追加されたジルコンブルーメタリックの塗色。グリルデザインのほか、ターンシグナルランプはホワイトからイエローに変更されている。

トヨタスポーツ800の変遷

1962年(昭和37年)
【10月】第9回全日本自動車ショー(東京・晴海)にパブリカスポーツの名で参考出品
1964年(昭和39年)
【10月】第11回東京モーターショー(東京・晴海)にほぼ市販車のデザイン(エンジンは700cc )で参考出品。同ショーで車名を公募
1965年(昭和40年)
【4月】トヨタスポーツ800発売(発表は3月、東京地区販売価格は59. 5万円)
1968年(昭和43年)
【3月】マイナーチェンジで後期型に移行(リヤボディの補強/防音材の追加/バックランプ装備/ブルーメタリック色追加など)
1969年(昭和44年)
【2月】フェンダーサイド部にターンシグナルランプを増設
【4月】販売終了

【戦闘機さながらのスライドキャノピーを採用した初期型試作車】トヨタスポーツ800の出発点となったパブリカスポーツ(開発コード145A=開発初期の関東自工での名称)は、大衆車パブリカの部品を使って、いかにして最大限の性能を発揮できるかをテーマとした壮大なる実験車両だった。開発主査の長谷川龍雄氏は、その航空機技術者としての経験から、徹底した軽量化と空気抵抗の低減に取り組み、1962年の全日本自動車ショーに同車を参考出品させる。フロアパネルを二重にしたサンドウィッチ構造、丸みを帯びた曲面ボディは、複数のデザインスケッチの中から戦闘機さながらのスライドキャノピー案が採用された。ちなみに長谷川氏は、パブリカスポーツ以前の1957年にも、FRPボディで飛行機のようなデザインの2人乗りスポーツカー「23A」という研究実験車を手がけている。

複数のデザイナーによるいくつかの案の中から、関東自動車工業のデザイナー・茂木信明氏のキャノピー案が採用された。スライド式キャノピーのほか跳ね上げ式キャノピー案もあったが、開けたまま走行できないという理由で不採用となった。

1964年10月の第11回東京モーターショーに展示されたパブリカスポーツ第2次試作車では、ほぼ市販のヨタハチのスタイルとなっていた。ただしエンジンは700cc 。このショーで車名の公募も行なわれている。

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