「宿敵ポルシェ」「惨敗の雪辱を果たす…」国産初の本格レーシングカーはテスト中に横転するもとんでもない記録を樹立。決勝レースではついに念願を…

日本の自動車レース黎明期、第1回日本グランプリには23万人の観客が押し寄せた。プリンススカイライン2000GTの「スカG伝説」もまた第2回日本グランプリレースで生まれたエピソードに端を発している。しかし、市販車ベースのレース車両では、宿敵ポルシェとの性能差は歴然としていた。そこで、その性能差を打ち破るべく開発されたのが、日本初のグループ6プロトタイプレーシングカー「R380」だった。

●文:月刊自家用車編集部

R380 A-Ⅰ型(1966年)

プリンスR380 A-Ⅰ型。デビュー戦の1966年日本グランプリで優勝という鮮烈デビューを果たした。翌年日産自動車との合併により、車名も日産R380に改められた。

打倒ポルシェを旗印に開発されたプロトレーシングカー

1963年5月、「第1回日本グランプリ」が日本で初めて本格的な自動車レースとして開催された。プリンス自動車は国内スポーツカーレースに2台のスカイラインスポーツを送り込んだ。しかし、見た目とは裏腹にセダンをベースにしたスカイラインスポーツの戦闘力は低く、決勝では7位と10位という結果になった。これはプリンス自動車が自動車工業会の規定を忠実に守り、チームへの直接のバックアップを控え、改造範囲を少なく留めたことも原因。他社は輸出仕様をベースにするという口実で、大幅に改造されていた。

この惨敗の雪辱を果たすべく挑んだ第2回日本グランプリで、ポルシェ904と激闘を繰り広げたスカイライン54Bの活躍は今でも伝説として語り継がれている。しかし、結果はポルシェ904に破れて2位。そして、プリンス自動車がポルシェ904を打ち破るべく開発したプロトタイプレーシングカーがプリンスR380だ。その開発には、スカイラインの開発者としても知られる桜井真一郎が携わった。

第2回日本グランプリ直後から開発がスタートしたR380は、当時のFIA規定のグループ6車両で、ミッドシップ後輪駆動、アルミボディ、新型6気筒DOHCエンジン、前後ダブルウィッシュボーンなどの基本を設定し、開発が進められた。

ボディの設計時に参考としたのはブラバムBT-8Aだったといわれ、1号車のR380では鋼管スペースフレームが流用されている。レースに参戦した2号車以降は鋼管パイプの径を太くして独自の設計に変更された。エンジンはスカイラインGTやグロリアに搭載されていたG7をベースにしていたものの、ほぼ新設計となっている。ギヤトレーンのDOHC6気筒24バルブ、ボア×ストロークは82×63.0㎜のショートストローク。これは当時のF1用エンジンであるコベントリー・クライマックスを参考にしている。

1966年の日本グランプリでレースデビュー。1年間熟成が進められたこともあり、デビューでいきなりの優勝。2位、4位にも入賞している。

直列6気筒ギヤトレーンDOHC 1996㏄のGR8型エンジンを搭載する。ツインチョークのウェーバー42DCOEの組み合わせにより200ps/8000rpmを発生する。

R380 A-Ⅰ型(1966年)主要諸元
●全長×全幅×全高:3930×1580×1035(㎜)●ホイールベース:2360㎜●トレッド前/後:1280/1260(㎜)●車両重量:620kg●エンジン:GR8型直列6気筒DOHC24バルブ 1996cc●最高出力:200ps以上/8400rpm●最大トルク:17.5kg-m以上/6400rpm●サスペンション前/後:ダブルウイッシュボーン/上Iアーム、下逆Aアーム、ダブルラジアスアーム●ブレーキ前/後:ディスク/ディスク●タイヤ:前5.00L-15/後6.00L-15 ダンロップ R7 ◎戦績:1966年第3回日本グランプリ優勝(11号車/砂子義一選手)

雪辱を果たしたのが、レース初デビューの1966年日本グランプリだった。

キャブレターはウェーバーのツインチョーク42DCOEを3連で装着。圧縮比は11:1で最高出力は200ps/8000rpmを発生。1965年の第3回日本グランプリを目標に開発されていたが中止となったため、谷田部の自動車高速試験場でのデビューとなり、テスト中に横転などのトラブルに見舞われたものの6つの速度記録を樹立。レースデビューは翌1966年の日本グランプリ。決勝レースでは砂子義一がドライブする11号車が優勝し、2位、4位も獲得した。

1967年からは日産自動車との合併により車名を日産R380と改め、日本グランプリや富士1000㎞でも活躍。1969年にはオーストラリアのシェブロン6時間レースに出場し、ワンツーフィニッシュを果たしている。1970年の富士インター2000マイルに出場して2位を獲得するが、このレースが事実上R380の引退レースとなった。

R380の変遷

1965年
R380 A-Ⅰ型完成。
1966年
改良型R380 A-Ⅰ型で第3回日本グランプリ優勝。
1967年
ボディスタイルを一新したR380 A-Ⅱ型で7つの世界速度新記録を樹立(谷田部自動車高速試験場)。
1968年
日産ワークスからニューマシンR381を投入。バックアップとしてR380 A-Ⅲ型も存続。この日本グランプリでは、R381が優勝。
1970年
富士インター2000マイルで2位入賞。これがR380の引退レースとなる。

R380 A-Ⅱ型(1967年)

1967年第4回日本グランプリで改良型のR380 A-Ⅱ型を投入。出力は220ps/8500rpmへアップし、トランスミッションはヒューランドからZFへ変更されている。

R380 A-Ⅱ型(1967年)主要諸元
●全長×全幅×全高:4060×1685×985(㎜)●ホイールベース:2360㎜●トレッド前/後:1424/1372(㎜)●車両重量:718kg●エンジン:GR8型直列6気筒DOHC24バルブ 1996cc●最高出力:220ps以上/8400rpm●最大トルク:20.0kg-m以上/7200rpm●サスペンション前/後:ダブルウイッシュボーン/上Iアーム、下逆Aアーム、ダブルラジアスアーム●ブレーキ前/後:ディスク/ディスク●タイヤ:前5.50L-15/後6.50L-15 ダンロップ R7 

R380 A-Ⅲ型(1968年)

1968年の日本グランプリにはさらに改良が進められたR380 A-Ⅲと後継モデルR381が共に参戦。出力は245ps/8400rpmへ。このレースでは、後継機種のR381がデビュー&優勝を飾っている。

R380の系譜を受け継ぐリアルレーシングモデル

R381(1968年)

R380の後継車となるR381は、当初日産初の5LV12エンジンを搭載する予定であったが、レースまでには間に合わずシボレーの5.5LV8ユニットを搭載している。エアロスタビライザーと呼ばれた分割可変ウイングが特徴だった。
R381型(1968年)主要諸元
●全長×全幅×全高:3995×1840×845/ ウイング位置1265(㎜)●ホイールベース:2470㎜●トレッド前/後:1460/1400(㎜)●車両重量:835kg●エンジン:シボレーV型8気筒OHV 5461cc●最高出力:450ps以上/6000rpm●最大トルク:54.5kg-m以上/5500rpm●サスペンション前/後:ダブルウイッシュボーン/上Iアーム、下逆Aアーム、ダブルラジアスアーム●ブレーキ前/後:Vディスク/Vディスク●タイヤ:前4.75-11.30-15/後6.00-13.50-15  ◎戦績:1968年第5回日本グランプリ優勝(20号車/北野元選手)

R381は当初、グループ6規定に合わせたガルウイングドアを持つクローズドボディだった。その後日本GPのレギュレーションが変更されたため、オープンボディとなった。

R382(1969年)

V型12気筒エンジンが完成し、新型シャシーに搭載。当初は5Lだったが、1969年の日本グランプリ直前に6L搭載の2号車を発表。トヨタ7、ポルシェ917を抑えてワンツーフィニッシュとなり連勝を記録。
R382型(1969年)主要諸元
●全長×全幅×全高:4045×1870×925(㎜)●ホイールベース:2400㎜●トレッド前/後:1470/1370(㎜)●車両重量:790kg●エンジン:GRX-Ⅲ型V12DOHC32バルブ 5954cc●最高出力:600ps以上/7200rpm●最大トルク:64.0kg-m以上/5600rpm●サスペンション前/後:ダブルウイッシュボーン/上Iアーム、下逆Aアーム、ダブルラジアスアーム●ブレーキ前/後:Vディスク/Vディスク●タイヤ:前10.55-15/後12.50-15  ◎戦績:1969年第6回日本グランプリ優勝(21号車/黒澤元治選手)

R383(1970年)

Can-Am参戦を目論み開発したが、公害や安全問題で日本グランプリへは不参加、Can-Amも直前にトヨタが起こした死亡事故により参戦を断念。一度もレースには出場していない。最高出力は900ps。

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