「ハリウッド俳優がこぞって買ったトヨタ車」世界的な人気に。その緻密なプログラムにマツダの技術者が「日本の宝だ」と感嘆した逸話も

革新的な商品が、すぐに利益に結びつくことは決して多くない。商品の信頼性は未知数だし、ライバルのいない状況では、価格競争だって起こりにくいからだ。世界初の量産型ハイブリッド車として、その圧倒的な低燃費をひっさげてデビューした初代プリウス(NHW10)も、登場時こそ大きなニュースとなったものの、ひと月の販売台数は2000台にも届かず、ヒット車とはほど遠いものだった。しかし21世紀に入り、地球温暖化を危惧する世論が高まってくると、環境意識の高いハリウッド俳優らが率先してプリウスを選択。地球に優しい最先端のクルマとして、その人気は世界中に飛び火していった。

●文:横田晃(月刊自家用車編集部)

発売時のプリウスは標準仕様(215万円)と12万円高のナビパッケージの2タイプ。215万円という価格は同車格のカローラに比べ50万円ほど高いが、バッテリーだけでおよそ45万円ということを考えれば破格のプライスといえた。月販目標は1000台。

主要諸元 標準仕様(1997年式) 
●全長×全幅×全高:4275㎜ ×1695㎜ ×1490㎜ ●ホイールベース:2550㎜ ●車両重量:1240㎏ ●乗車定員:5名●エンジン(1NZ-FXE型):直列4気筒DOHC1496㏄ (最高出力:53kW=72PS/4500rpm 最大トルク:115N・m=11.7㎏ ・m/4200rpm)●モーター(2CM):交流同期電動機(最高出力:33kW/1040~5600rpm 最大トルク:350N・m=35.7kg・m/0~400rpm)●10・15モード燃費:28.0㎞ /L●最小回転半径:4.7m●燃料タンク容量:50L●トランスミッション:電子制御式無段変速●サスペンション(前/後):ストラット式独立懸架/トーションビーム式独立懸架●タイヤ(前/後):165/65R15 81S◎新車当時価格(東京地区):215万円

見やすさと操作性を追求した結果、センターメーターを採用。デジタル表示の速度計をインパネ最上部にレイアウト、無反射ガラスを採用しフードレスとしたことで、より未来感が強調されている。センターメーターは日本車でもホンダステップバンや日産エスカルゴなどですでに採用されていたが、プリウス以降採用モデルが増えた。

前席のゆとりを優先し、コラムシフトと足踏み式パーキングブレーキを採用。運転席と助手席のウォークスルーを可能にしている。高い車高、さらにロングホイールベースとオーバーハングの少なさで大人4人も余裕で乗れるキャビン。このパッケージングも省燃費とともにG21プロジェクトの重要なテーマだった。

不可能と思われたハイブリッド量産に挑んだG21プロジェクト

1997年暮れに世界初の量産ハイブリッド車として初代プリウスが発売されてから、すでに27年が歳月が過ぎた。しかもその間に、ハイブリッド車は世界の次世代車のスタンダードになり、そして、さらにその先のBEVへとクルマは進化を辿っている。そのパイオニアとも言えるプリウスは、自動車史に名を残す堂々たる名車の有資格者なのである。

とはいえ登場当時の初代プリウスは、「21世紀に間に合いました」という名コピーとは裏腹に、とても自動車としての高評価を与えられる代物ではなかった。充電不足での加速は軽自動車並みで、キビキビとした走りとは程遠く、エンジンとモーターの切り替えもスムーズではなかった。エネルギー回生を優先したブレーキはペダルフィールもリニアリティも悪く、思ったより1mも手前で止まりそうになったり、停止線を越えそうになったりした。燃費のために、すべてを犠牲にしたかのような出来栄えだったのだ。

どれも今日のトヨタのハイブリッド車からは考えられないほどの稚拙さだが、それもそのはずだった。じつは初代プリウスは、白紙からの新規開発としてはあり得ないほど開発時間が与えられずに、なんとか21世紀に間に合わせたクルマだったのである。

プリウスのそもそものスタート地点は、1993年にトヨタ社内で始まった未来の自動車像を考える勉強会、「G21」だった。Gはグローバルを意味し、21はもちろん7年後に迫った21世紀のことだ。この段階では、「カローラの1.5倍程度の燃費で、室内の広いクルマ」という程度の目標だった。それは年末に正式プロジェクトとなり、1995年のモーターショーに出展するコンセプトカーとしてまとめられる予定だった。

燃費向上の手段として、1993年にメルセデス・ベンツが初代Aクラスの原型となるコンセプトカー、「ビジョンA93」で提示した電気自動車なども検討したが、結局、当時の最新技術である直噴のD-4エンジンとCVTを組み合わせて、20㎞/L程度の燃費を狙った。

ところが1994年秋に、技術担当副社長から燃費2倍を厳命される。そうなると純ガソリン車ではとても不可能。一方、副社長は同時にEV開発チームが研究していたハイブリッドシステムに、燃費3倍を課していた。そのチームが「2倍ならなんとか」とメドをつけたのを受けて、G21のチームの燃費目標は従来車の2倍に決定した。

その時点で、開発陣にはハイブリッドしか選択肢はなかった。

初代プリウスはエンジンとモーターが走行状況に応じて役割を分割、EV走行も可能なシリーズ・パラレル方式を選択。この時の選択が、今日のハイブリッド車の隆盛に繋がっていると言える。

電気エネルギーの蓄電・放出を担うニッケル水素バッテリー。初代プリウスの前期型では、ある意味貴重なテスト車という役割もあったようで、公式発表はないものの、バッテリーは保証期間を過ぎても無償で交換に応じてくれたという。

ハイブリッド専用の1.5Lエンジンを中心に、モーターや発電機、動力分割機構や減速機で構成されるTHSのパワーユニット。エンジン動力は車輪と発電機に分割。発電機でエンジン回転数を無段階制御することで、電子制御式の無段変速機として機能。

パラレル式でもなくシリーズ式でもない理想を追求したTHS

ハイブリッド車の歴史は意外と古い。1900年、すなわち19世紀の末年にポルシェ博士が設計したローナー・ポルシェは、現在の日産がe‐POWERと呼ぶ、エンジンで発電し電気で走るシリーズ式るハイブリッド車だった。主にアメリカで戦後の鉄道輸送の主役となったディーゼル機関車も、シリーズ式ハイブリッドだ。

一方、エンジンの効率が悪い領域をモーターでアシストする、比較的シンプルなパラレル式ハイブリッドも、すでに知られてはいた。プリウスに続いてホンダが世に出すIMAシステムはこちらだ。対してトヨタが採用したのはその両者のいいとこ取り。エンジンとモーターを最高効率のところで使い分ける、シリーズ・パラレル式と呼ぶシステムだった。駆動用と発電用の2つのモーターを備え、高度な電子制御でエンジンとモーター、発電機の間で動力を振り分ける凝ったメカニズムだ。

ただし、1995年のモーターショーで発表されたプリウスコンセプトに搭載されていたのは、いわばダミーのシステムだった。D-4エンジンとCVTの組み合わせに1個のモーターを使い、バッテリーも電気の出し入れは迅速だが容量は小さいキャパシタを使っていた。システムの呼び名もハイブリッドではなく、あえてEMSとしてライバルの目を欺いた。

コンセプトカーが発表されたころ、本命である2モーターを備えた試作車は完成した。ところが、それは当初1mmも走らなかったという。最初はシステムが起動せず、目覚めたと思ったら動き出せない。49日もかかってようやく原因を究明し、発進したはいいが、たった5mで止まってしまった。しかも、なんとか走り出しても燃費の数字は、当初はガソリン車よりも悪かったのである。

その後もハード、ソフトの両面で不都合は多発し、開発陣は「21世紀に間に合うといいね」と話していたという。なにしろバッテリーの直流電流を交流に変える、システムの基幹部品であるインバーターの半導体が一度ならず熱で焼損するありさまだったのだ。

そんな中、1995年夏に就任した奥田碩社長から、1997年中の発売を指示される。ちょうどそのころ、気候変動枠組条約第三回締約国会議(COP3)が京都で開催されることが決まり、それに合わせて発売しようという戦略だった。

無茶なこのオーダーに、開発陣は懸命に応えた。1997年3月には異例の技術発表会を開催、ガソリン車の2倍の燃費を実現したハイブリッド車の発売がアナウンスされた。

プリウスコンセプト

1995年の東京モーターショーに出品されたプリウスコンセプトにはTHSが間に合わず、蓄電装置にキャパシタ(コンデンサー)を使ったEMSと呼ばれる動力システムを採用している。エンジンは直噴の1.5Lでトランスミッションは CVT。センターメーターの採用もなかった。

発売後も改良を加え着々と信頼を高めていったトヨタの地道な戦略

まさに滑り込みセーフで発売にこぎつけたプリウスがまだ未完成の状態であることは、開発陣がもっとも理解していた。開発段階での耐久テストも十分ではなく、ディーラーに配られる修理手引き書も、簡易版という状態だったのだ。

年末の休みにも開発陣は特別チームを待機させ、プリウスが止まったという知らせが入ると現場に駆けつけてオーナーに謝りつつ、24時間以内に原因を究明し、対策を講じるという日々を送った。初期トラブルを客先の現場で洗い出してつぶすそのやり方は、奇しくもトヨタの創始者である豊田喜一郎が最初のG1型トラックを上市したときに採った方法でもある。結果的に客に信頼耐久実験をさせる事態にはなったが、そうして集められた情報によって、プリウスは着々と煮詰められていった。2000年5月のマイナーチェンジでは、モーターやインバーターなどの基幹部品を含む、ハイブリッドシステムの約9割を新設計とし、中身は事実上のフルモデルチェンジで北米と欧州に送り出した。

それでも、高速走行の文化の色濃い欧州では、辛い評価が多かった。海外メーカーの反応も鈍く、「次世代車はあくまでもEV(電気自動車)やFCV(燃料電池自動車)であり、ハイブリッドはつなぎの技術」という見方が多かったものだ。日本国内では215万円という価格にも、「一台ずつ札束をつけて売っている」と皮肉る声があった。まだ高価なバッテリーや複雑なメカニズムを新規に起こして、この価格でできるはずがないというわけだ。事実、戦略的に付けられた初代プリウスの価格は、単独では大赤字だったはずだ。

しかし、諦めずに熟成を続けたトヨタは、やがてその投資を回収する。2003年に日米欧で発売された2代目は、北米ではハリウッドスターがアカデミー賞に乗り付けたことで環境を意識するライフスタイルの象徴となり、2005年には欧州COTYにも輝いた。

今では、海外のメーカーも簡易型ながらハイブリッド車を競って発売している。システムの供給を受けてハイブリッド車を誕生させたマツダのエンジニアは、開示されたプログラムに感嘆して「THS-Ⅱの緻密な制御は日本の宝だ」と筆者に語ったものだ。

海のものとも山のものとも知れなかったハイブリッド車を、トヨタは見事にものにした。メディアは未知への挑戦という志を買い、初代発売前にもかかわらずカー・オブ・ザ・イヤーを授与。地道な改良で信頼を勝ち取ったハイブリッドは今や乗用車のスタンダードになった。

初代プリウス登場時のキャッチは「21世紀に間に合いました」。トヨタはパワートレインだけでなく、デザインやパッケージングも21世紀のスタンダードを目指した。

衝撃吸収ボディ(GOA)

1990年代の欧米の安全基準に、トヨタ独自の性能目標をプラスした世界トップレベルの衝突安全性能を目指したGOAボディ。いち早くデュアルエアバッグも標準装備されている。

センターメーターとエレクトロマルチビジョン

5.8インチのエレクトロマルチビジョンがコックピットの主役。燃費モニターや各種ウォーニング表示、オーディオ調整画面のほか、オプション追加でTV、ナビゲーションにも使える。

コラムシフトとウォークスルー

インパネ出しのガングリップタイプのコラムシフトを採用。サイドウォークスルーだけでなく、左右に余裕を持たせたシートサイズの実現にも寄与している。

組み込み式チャイルドシート

初期型では後席左側が組み込み式のチャイルドシートとなっていたが、マイナーチェンジで廃止され、代わりに6:4分割のトランクスルー機能が付いた。

プリウス(NHW10/11)の変遷

1995年(平成7年)
11月/ 第31回東京モーターショーにプリウスコンセプトを参考出品。
1997年(平成9年)
12月/正式発表および発売。グレードは標準仕様とナビパッケージの2タイプ。
1998年(平成10年)
11月/特別仕様車「Gセレクション」を発売。外装色スーパーホワイトⅡを追加。
2000年(平成11年)
5月/マイナーチェンジ。10・15モード燃費を28㎞ /Lから29㎞ /Lに向上。SとGの2グレード構成へ。
米国での販売開始に伴いバンパーを大型化。またリヤスポイラーの装着で空力性能をアップ。バッテリーの小型化による荷室容量の拡大。6:4分割可倒式シートの採用、エレクトロマルチビジョンのタッチパネル化など。
2001年(平成12年)
1月/ 特別仕様車「Sプレミアム21」発売。
8月/一部改良。欧州仕様のサスペンション、ブレーキなどを装備する「ユーロパッケージ」を設定。
外装色ボルドーマイカを追加。
2002年(平成13年)
8月 /一部改良。回生ブレーキの効率化などで10・15モード燃費を31㎞ /Lに向上。特別仕様車「Sナビスペシャル」「Gナビスペシャル」「発売。
2003年(平成14年)
8月/生産終了。
9月/ 2代目プリウスへフルモデルチェンジ。

2代目プリウス(NHW20) 2003~2011年

初代の3ボックスセダンから5ドアハッチバックへ変身。Cd値0.26という空力ボディはリヤエンドが高く、視界を確保するため後方にサブウインドウが付けられた。ハイブリッドシステムはTHS-Ⅱに進化し、モーター出力を大幅にパワーアップ。パーキングアシストなど世界初の先進技術も数多く採用された。

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