無骨なミツビシのイメージを一新! 若者を虜にしたスタイリッシュ&スポーティな”華麗な仔馬”│月刊自家用車WEB - 厳選クルマ情報

無骨なミツビシのイメージを一新! 若者を虜にしたスタイリッシュ&スポーティな”華麗な仔馬”

無骨なミツビシのイメージを一新! 若者を虜にしたスタイリッシュ&スポーティな”華麗な仔馬”

1960年代、航空機や船舶からの技術者が多かった三菱が造るクルマは、「丈夫で壊れない」が特徴だった。スバル360やカローラの登場で、クルマが庶民のものに変わっていくと、そんな真面目一辺倒のクルマは時代遅れになってしまう。三菱500 をルーツとするコルトに代わり、1969年の年末に発売されたコルトギャランは、ジウジアーロのデザインをもとに造られた美しいセダン。ギャラン( 仏語で華麗な、洗練されたの意味)のサブネームが与えられたこのクルマは、古い三菱のイメージを払拭し、大ヒットとなった。

●文:横田晃(月刊自家用車編集部)

1969年の発売時、最もホットだったAⅡGS 。ラリーやスピードレースに出場する人のために、スポーツキットも用意された。

主要諸元(4ドアAⅡGS 1970年式) 
●全長×全幅×全高:4080㎜×1560㎜×1370㎜●ホイールベース:2420㎜●車両重量:855㎏●エンジン(4G31型):水冷直列4気筒SOHC1499㏄●最高出力:105PS/ 6700rpm●最大トルク:13.4㎏・m/ 4800rpm ●最高速度:175㎞/h ●燃料タンク容量:45L●トランスミッション:4速MT●最小回転半径:4.6m●タイヤサイズ:6.15 -13-4PR●乗車定員:5名 ◎新車当時価格:72万1000円

特許を取得した楕円曲面無反射メーターが取り付けられ、ひとつで5つの操作を受け持つマルチユースレバーが採用されたインパネ。

頑健だが「色気のない三菱車」。そんなイメージを覆して大ヒット車に

三菱自動車工業という会社が誕生したのは、1970年のこと。ただし、その前身である三菱重工の歴史を遡れば、坂本龍馬が作った海援隊にルーツを持ち、近代日本の歴史にさまざまな形で関わってきた重厚長大なブランドだ。その歴史は、よくも悪くも三菱ブランドの製品に影響を与えてきた。

1955年に当時の通産省の若手官僚が発案した国民車構想にいち早く反応し、1960年に発売した戦後初の自社開発乗用車となった500が、戦時中の三菱重工の主力製品だった戦車のように色気のない、頑丈一点張りだったのもそう。

それが不評と知ると、2年後には早くもデザインを改め、少しでも身近なイメージを出そうとコルトのサブネームをつけて600を売り出すものの、マイカー時代到来前の当時は、売れたとは言い難い結果に終わる。実力的にはトップクラスにありながら、歴史ある巨大企業の弊害なのだろうか。庶民の気持ちを掴むのがヘタで、売り方もどこか官僚的だったのだ。

1965~1966年には、旧水島製作所が開発したコルト1000Fと、旧名古屋・京都製作所の手になるコルト1000という、同クラスのまったく異なるモデルを発売するという壮大な無駄遣いまでやらかしている。その反省から、自動車メーカーとして独立する前年の1969年に誕生し、ついに人々の心を掴むのに成功したのがギャランだ。

コルトの名は残しながらも、ジウジアーロに原案を依頼したフォルムは、もともと三菱重工の本業だった航空機部門のノウハウを活かして空力を煮詰めたスタイリッシュなもの。低速トルクやレスポンスに優れるロングストロークエンジンも、高い技術で成立させ、東名高速全線開通で到来したハイウェイ時代にふさわしい、スポーティなモデルとして幅広い人気を得たのだ。

このクルマの成功をきっかけに、三菱自動車は設立早々軌道に乗り、トヨタ、日産に肉薄する第三位の自動車メーカーとなった。ちょうど、当時世界を席巻していたミニスカートのように、古い殻を脱ぎ捨てた三菱のブランドは、若者をも振り返らせるスタイリッシュなブランドに変身を遂げたのである。

大阪万博が開かれていた1970年5月に追加されたハードトップ。カスタム、カスタムL、GS(グランドスポーツ)の3グレード。セダン比で全幅は+10㎜、全高はー30㎜。写真は1971年以降の後期型。ヘッドライトも角型2灯から丸型4灯に変更された。この頃からカタログではコルトの名が外され、ギャランを名乗る。

若者たちを熱狂させて黄金時代の礎となった2つの個性派クーペ

初代ギャランが登場した当時は、サニーとカローラが火をつけたマイカーブームが若者にも到達し、スポーティなモデルが待望されていた時代だ。スカイラインに2ドアHTが登場し、初代セリカが誕生したのも、ギャラン登場の翌年となる1970年のこと。同年には、ギャランにも2ドアHTが加わっている。

しかし、北米でもクライスラーブランドで販売されて好評を得たこのHTより、日本の若者を熱狂させたのは、ギャランとドアなどを共用しながらも、より先鋭的なデザインを採用した2台のクーペだった。アメリカンマッスルカーを思わせるフォルムのGTOと、ショートホイールベースで機敏なハンドリングを備えた、個性的なFTOがそれ。GTOは1970年に、FTOは翌1971年に発売されている。

GTOには、当時三菱がワークス参戦していたフォーミュラカーのエンジンをベースとしたDOHCを積むMRも設定され、同じくDOHCエンジンを売り物にしたセリカに対抗する。

オイルショックや排ガス規制の影響で、このエンジンは早々にドロップしてしまうが、SOHCながらツインキャブのスポーツエンジンは残り、GSRのグレード名で好評を得る。GTOとFTOの両者に設定されたGSRは、当時認可されたばかりの70偏平タイヤを履き、それをカバーするオーバーフェンダーを纏った迫力ある姿が人気を呼んだのだ。

ただし、その名は次期モデルには継承されなかった。ギャランが1976年に登場した3代目でΣのサブネームを与えられたのに合わせて、HTはΛとしてGTOと統合。GTOはランサーのクーペ格として1975年に登場したセレステに統合されてしまう。

のちにGTO、FTOの名は復活するものの、初代ほどの人気を呼ぶことはなかった。せっかく成功させたブランドをいとも簡単に捨て、育てることができなかったのは、やはりユーザーの心を掴むのが苦手な大企業病ゆえ、と言っては酷だろうか。

ともあれギャラン一族は、1970年代の若者たちに鮮烈な印象を残して駆け抜けた。その後もターボや4WDなどのハイメカニズムのショーケースとなる。

コルトギャランGTO(1970〜1977年)

1970年代に入りスペシャリティカーの人気が高まると、三菱はコルトギャランのコンポーネンツを使った美しい2ドアクーペを登場させる。GTO(グラン・ツーリスモ・オモロゲート)と名付けられ、たちまち若者たちの憧れになった。

主要諸元(GTO-MR 1970年式) 
●全長×全幅×全高:4125㎜×1580㎜×1310㎜●ホイールベース:2420㎜●車両重量:980㎏●エンジン(4G32型):水冷直列4気筒DOHC1597㏄ ●最高出力:125PS/ 6800rpm ●最大トルク:14.5㎏-m/ 5000rpm ●最高速度:200㎞/h ●燃料タンク容量:55L ●トランスミッション:5速MT●最小回転半径:4.6m●タイヤサイズ:165SR13●乗車定員:5名 ◎新車当時価格:114万5000円

航空機の操縦席を思わせるラウンドタイプのコックピット計器盤を装備。上部に6つ、センターコンソール中段に2つ。合計8つの丸形メーターが並ぶ。このスポーティなインパネはライバル他車にも影響を与えた。

レバー操作でスライドしながらシートバックが倒れるウォークイン式を採用。また前席シートベルトは3点式。(写真はMR)

デビュー時は全車1.6L。写真はMRのニューサターンDOHCエンジン(125PS)。

ギャランクーペFTO(1971〜1975年)

ドアはコルトギャランやGTOと共通だが、ホイールベースを短縮し、キビキビした走りを目指したパーソナルクーペ。角度によって見え方が変わる「ファストノッチバック」スタイルが特徴だった。エンジンは1.4Lと1.6Lを搭載した。

主要諸元( FTO1600GSR 1973年式) 
●全長×全幅×全高:3765㎜×1655㎜×1320㎜●ホイールベース:2300㎜●車両重量:875㎏●エンジン(4G32型):水冷直列4気筒SOHC1597㏄ ●最高出力:110PS/ 6700rpm ●最大トルク:14.2㎏・m/4800rpm  ○燃料タンク容量:42L ●トランスミッション:5速MT●最小回転半径:4.5m●タイヤサイズ:175/70HR13●乗車定員:5名 ◎新車当時価格:89万8000円

スポーツグレードのGSRは丸型4連メーターを採用。

GSR専用のダークブラウンのハイバックシート。

当初はハイカムシャフトを採用した1.4L SOHCネプチューンエンジンを搭載。1973年に1.6L SOHCエンジンを追加。GSRには110PSのツインキャブを搭載した。

伝統の頑健さを武器に過酷なラリーで活躍、世界に三菱の名を轟かす

1960年代の日本の自動車市場では、今日よりずっとモータースポーツでの活躍が販売実績に影響した。とはいえ当時の(ホンダ以外の)日本のメーカーには、ハイメカニズムが勝敗を左右する海外のサーキットレースは荷が重かった。そこで注目されたのが、過酷なラリー競技だ。

まだ高速道路は少ない一方で、未舗装路も多かった当時の日本では、信頼耐久性は何にも勝る売り物だ。事実、1958年のオーストラリア一周レースから海外ラリーに参戦した日産は、頑健さを活かして好成績を残し、技術の日産の名声を確立していた。

そこで三菱が挑んだのが、市場としても有望なオーストラリアで開催されるサザンクロスラリーだった。もともとは、コルト800の同市場への投入前の現地テストで手応えを掴んだ実験部による提案だったという。1967年にコルト1000Fで参戦すると、初出場にしてクラス優勝と同3位という金星を残す。

さらに排気量を拡大した1100Fで挑んだ翌年は、総合3位と2年連続のクラス優勝という好成績を上げたのだ。1969年には、水島製作所の1100Fと名古屋製作所の1500を2台ずつ送り込み、優勝こそ、のちに三菱車に乗って大活躍するアンドリュー・コーワンの乗るオースチンにさらわれたものの、1500が総合3位と7位に入って見せた。

その経験を生かし、満を持してギャランを送り込んだのは1971年のこと。この年は不幸なアクシデントで不本意な成績に終わるが、翌1972年には、オースチンから引き抜いたアンドリュー・コーワンがいきなり総合優勝を飾り、1973年には、サファリラリーでギャランに乗るプライベートチームがクラス優勝を遂げる。

勢いに乗った三菱は、いよいよ本格的にラリー活動に力を入れた。ランサーのデビュー戦となった1973年のサザンクロスで、いきなり1-2-3-4位を独占する快挙を成し遂げると、じつに1976年まで、同ラリーで4連勝をしてのけるのだ。

1974年から参戦したサファリラリーでも、初年をふくむ2回の総合優勝を獲得。頑健で高性能という新たな三菱のイメージが、世界に定着したのだった。

三菱重工水島製作所製。KE43 型エンジンはF3Aフォーミュラカー用をラリー向けにチューンするという形で開発された。ベースはハッチバックモデルのコルト800だった。

三菱初の国際ラリー参戦。コルト800の豪州輸出などの経緯もありこのレースが選ばれた。同車をベースに4サイクル977㏄エンジンを積んだコルト1000Fは総合4位( Fクラス優勝)を達成。

サザンクロスラリーへの挑戦を続け、1968年にはコルト1100F、1969年にはコルト1500SSとコルト11F SS。1971年にはギャランAⅡ GSと、次々に新しい車両を投入し、ノウハウを積み重ねた

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