
終戦後、小型乗用車の生産が再開されるのは昭和22年になってから。しかもGHQの統制により、1年間に300台という制限がついた。当然、需要を満たすには米軍払い下げの中古を含む外国車に頼らなければならない。昭和27年、国産技術向上に懸念を抱いた通産省の指導により、国内各社が「完全国産部品化」を目指して海外メーカーと「ノックダウン」契約を交わす中、トヨタはあくまで純国産車開発に総力を注いだ。
●文:横田晃(月刊自家用車編集部)
初代クラウンRS
日本人の手で造られた日本人のための乗用車がトヨタ創設者の夢だった
明治の発明王、豊田佐吉の長男として1894年に生まれた喜一郎は、創意工夫で開発した独自の自動織機で成功した父の志を受け継ぎ、日本の独自技術による国産乗用車の開発に生涯をかけた。戦前の日本の乗用車市場は、1926~1927年にかけて日本国内での組み立てを開始したフォードとGMに牛耳られており、日本メーカーの技術や価格競争力は到底それに及ばなかった。しかし、喜一郎は父と同様に、外国人を唸らせる、日本の独自技術による乗用車の開発と販売を夢見たのだ。
ただし、戦前には自家用乗用車の市場はまだなく、喜一郎はアメリカ車を手本に自ら開発した乗用車をベースとした、軍用トラックで自動車メーカーとしての地歩を固めた。戦後もGHQ(連合国軍総司令部)に乗用車の生産が禁じられる中、未来を見据えて国産車開発に着手。年間300台に限って小型乗用車の生産が許された1947年には、先進的な設計の乗用車、トヨペットSA型を世に問うものの、ビジネスにはならなかった。当時の日本の自動車産業には、逆風が吹いていた。
1950年には、一万田尚登日本銀行総裁が「外国に優れた乗用車がある中で、日本が自動車工業を育成するのは無意味だ」と発言するなど、将来性が疑問視されていたのだ。
その一方で、戦前の商工省から改組されて発足したばかりの通産省(現・経済産業省)は、国内自動車産業を育てるため、外国メーカーからの技術導入を促進する方針を1952年に表明。それに応じて日産がオースチンの、日野がルノーの、いすゞがヒルマンのノックダウン生産を開始するなど、乗用車事業への挑戦意欲は高かった。
そうした中でも、トヨタは外国メーカーからの技術導入を潔しとせず、あくまでも独自技術にこだわった。それは、1950年に労働争議の責任をとって社長の座を降り、1952年に復帰を目前にしながら急逝した喜一郎の遺志でもあった。
志半ばで喜一郎が逝去する直前の、1952年1月に着手した初代クラウンRS型の開発は、まさに喜一郎氏の弔い合戦でもあった。開発陣は何がなんでも独自技術にこだわって、このクルマを成功させる気概に燃えたのである。
ウインカーは腕木式でBピラーに埋め込まれている。ハンドルに連動して方向指示スイッチが戻る機能も付いていた。
主要データ(RS型・1955年式)
●全長×全幅×全高:4285㎜×1680㎜×1525㎜●ホイールベース:2530㎜●車両重量:1210㎏●エンジン(R型):水冷直列4気筒OHV1453㏄ ●最高出力:48PS/4000rpm ●最大トルク:10.0㎏-m/2400rpm●最高速度:100㎞/h●燃料消費率( 平坦舗装路):14.0㎞/L ●燃料タンク容量:45L●トランスミッション:3速MT●最小回転半径:5.5m●乗車定員:6名 ◎新車当時価格:101万4860円
スクエアタイプの1.5L4気筒エンジンを搭載した。
頑強なラダーフレームを採用し、当時の日本の悪路をタフに走った。
個性派のエンジニアが顧客の声に耳を傾けて作り上げた理想の乗用車
クルマ、わけても乗用車の開発には、さまざまな専門分野を持つ多くの技術者が関わっている。エンジンを始めとするパワートレーンはもちろん、サスペンション、ボディ、内装、空調などの快適装備まで、幅広いカテゴリーのスペシャリストによる分業が必要なのだ。
喜一郎氏が乗用車の開発を始めた時代には、まだ構造もシンプルなもので、彼がすべての開発に関わることもできた。しかし、本格量産乗用車を目指したクラウンでは、もはやそれは無理。多くのスペシャリストを使いこなして開発を統括する、オーケストラにおける指揮者のようなリーダーが必要だった。そこで生まれたのが、今日のチーフエンジニアの前身となる、主査という職制だ。
初めてその肩書を背負い、初代クラウンの開発に挑んだのが、中村健也だ。当時、挙母工場(現・トヨタ本社工場)で生産現場の機械設計や管理運営を担っていた彼は強い個性の持ち主で、社内でも懐疑的な声のある本格的な乗用車の開発をいつも上層部に訴えていた。その芯の強さとリーダーシップが見込まれての任命だった。
彼は、誰もしたことのない主査という仕事を、各地のディーラーや、当時の主な顧客だったタクシー会社に足を運び、要望を聞くことから始めた。現代では常識のマーケットリサーチを、自ら考えて初めて採り入れたのだ。
結果、アメリカ車的な堂々としたスタイルや、後席に乗り降りしやすい観音開きのドア、大きな窓や広い室内といった、基本方針が固まっていった。一方で、タクシー業界では信頼性への不安が聞かれた前輪独立サスペンションの採用にこだわるなど、理想の乗用車作りにも妥協しなかった。
組織を横断して統率する主査制度に慣れない開発現場からは、ときに中村への不満の声も噴出した。それに一歩も譲らず、怒鳴り合いも辞さずに、中村主査は自身の考える日本人の、日本人による、日本人のための乗用車=クラウンの開発を進めていったのだ。
じつは、中村が作ろうとしていた革新的なクルマへの不安は、社内にもあった。そこで、クラウンの主要部品を使いながら、従来同様にトラック用のフレームとリジッドサスペンションを備えた頑丈な仕様として、トヨペット・マスターも並行して開発された。けれど、完成したクラウンは十分な信頼性を備え、乗り心地もリジッドサス車とは段違いだった。
中村は、見事にそれまでの国産車の概念を塗り替える、頑丈で乗り心地もいい、独自技術による理想の乗用車を作って見せたのだ。
丸型スピードメーターの右に燃料計など4つの四角い計器が並ぶ。ハンドブレーキは運転席の右側に。
ドアは左右ともに観音開き。日本髪を結う女性の乗り降りを考慮してこうなったと言われている。
イグニッションやドアと共通のキーで開けることができたトランク。
海外では通用しなかった初代クラウンの屈辱から世界への飛翔も始まった
1955年1月に発売された初代クラウンは、大きな話題を呼んだ。東京・虎ノ門のディーラーで開催された発表会には、1万8000人もの来場者があったという。屈辱の敗戦と占領から10年。まだまだ貧しく、すべてが諸外国に見劣りする中で、海外の技術に頼ることなく作り上げられ、日本人の使い方や日本の道路に合ったクルマとして生まれた初代クラウンは、希望の星となったのだ。
発売初年の販売台数は7000台。今なら一か月で売り切るモデルもある数字だが、当時の小型乗用車市場では、それは60%のシェアを占めた。翌年には1万2000台に迫り、1957年には1万5000台を超える。しかも、この年には初めて、自家用車登録がタクシーなどの営業車登録を超えるのだ。
101万4860円という発売当時のクラウンの価格は、今の価値に直せば5000万円以上。それを自家用車として買えるのは、富裕層だけだ。当時の小型車規格である1.5Lのエンジンと5ナンバーサイズのボディは、今で言えばカローラ級の車格だし、グロスで48馬力のパワーは、今日の実用軽自動車にも劣る。最高速もカタログに載るメーカー計測値が100km/hジャストでしかない。そんな貧弱な国産車でも、当時の日本人には豪邸が買えるほどの対価を支払って、胸を張って乗り回すにふさわしいステイタス・シンボルだったのである。
ただし、日本人の自尊心をいたく刺激した出来ばえも、まだ海外には通用しなかった。初代クラウンは1957年8月に2台のサンプル車が北米に送られ、翌年には30台が船積みされて、日本車の対米輸出第一号となる。しかし、現地での評価はさんざん。フリーウェイでは、合流車線で加速しきれず危険と指摘され、なんとか巡航速度に達すると、だらしなくオーバーヒートしてオーナーを怒らせた。
まともなテストコースもなく、最高速テストは警察の協力を得て公道のわずかな舗装区間でするしかない環境で開発されたクラウンには、海外が求める高速性能はなかったのだ。かくして1960年に、トヨタは対米輸出を一度は諦め、以後、クラウンは日本国内専用車として歩み続けることになる。
しかし、その後の日本車の進歩の目ざましさは、今さら言うまでもない。今日のフリーウェイでは、アメリカ車以上に大手を振って日本車が走り回り、技術と性能、品質は、世界でも評価されている。その礎となったクラウンは、まぎれもなく、日本人の手による独自の乗用車という豊田喜一郎の夢から生まれたのである。
米国に販売会社も設立され、満を持して始まった対米輸出だったが、1959年の1171台から、翌1960年は316台と下降線を辿る。時速60マイルでハイウェイを疾走する米国では信頼性を得られず、1960年をもって輸出中止を決断した。
1957年式輸出仕様のクラウンデラックス。クラッチペダルの左にあるボタンを踏むと、ヘッドライトがハイ/ローに切り替わる。
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