「羊の皮を被った狼」、スカG伝説は、この2代目(S50系)からはじまった!│月刊自家用車WEB - 厳選クルマ情報

「羊の皮を被った狼」、スカG伝説は、この2代目(S50系)からはじまった!

日産の多くの車種の中でも長寿の部類に入り、その高い技術力のイメージを牽引してきた車種である「スカイライン」。そのむかし「スカG」の愛称で呼ばれ、「スカイライン=GT」というイメージがはじめて自動車ファンの心に刻まれるきっかけとなった車種があります。ここでは、後にレースで50勝を挙げて伝説となる「GT-R」のルーツとして産み出された2代目「スカイライン」にスポットをあてて、少し掘り下げてみましょう。

●文:往機人(月刊自家用車編集部)

4気筒のスカイライン1500 をベースにホイールベースを200㎜延長し、上級モデルであるグロリアスーパー6のG7型2000㏄直列6気筒エンジンを搭載するというアクロバットのような手法で登場した2000GT。

高級車路線から一転、小型のファミリーセダンへと方向転換

2代目「スカイライン(S50系)」が登場したのは1963年です。

戦後の国産メーカーのほとんどがそうであったように、「プリンス自動車工業」も公用車やタクシーを含む高級車から乗用車生産のスタートを切ります。「スカイライン」はその第二段として企画された車種で、1957年に発売。プリンスの主力車種として多くの意欲的な機構が盛り込まれていました。その後、国産初のスペシャリティカーといわれている「スカイライン・スポーツ」の発売を経て、この2代目「S50系」へとモデルチェンジされました。

1960年頃には日本の経済は戦後の困窮から抜け出して豊かさの気配を見せていました。初代「スカイライン」は高級車として企画されましたが、プリンス自動車工業では、1959年に上位モデルの「グロリア」を発売していたこともあり、“マイカー”の対象としても訴求できるよう、小型のファミリーセダンとして生まれ変わります。

当時のライバルは、小型車クラスですでに人気を博していた「トヨタ・コロナ」と「日産・ブルーバード」です。そのライバル車たちとの差別化を図るため、この2代目「スカイライン」には、プリンスの意欲的なアイデアが多く盛り込まれました。

プリンス・スカイライン1500デラックス(1963年)

1963年に発売された2代目(S50型)スカイライン。初代の米国風フルサイズセダンから一転、ライバルのひしめく1.5Lクラスの小型ファミリーセダンとして生まれ変わった。先進的なモノコックボディを採用し、1.5L・直列4気筒OHV・70psエンジンを搭載。

プリンス・スカイライン2000GT(1965年)

1965 (昭和40)年2 月に登場したスカイライン2000GT(S54B-2 型)は、前年登場したスカイラインGT(S54A-1 型)をより洗練させたグランドツーリングカーだった。 ウェーバー製のキャブレターを3 連装し、当時としてはトップクラスの125ps を発生。最高速度も180km/hに達し、国産最速のスポーツセダンだった。

プリンスらしい技術がふんだんに盛り込まれた造り

基本部分はファミリーセダンらしいパッケージとしてオーソドックスな構成を採用しています。ボディは質実剛健な設計のモノコック式を採用。サイズは全長4100mm×全幅1495mm×全高1435mmと、ライバルたちとほぼ同じ枠に設定しています。足まわりは、フロントが初代から受け継いだダブルウイッシュボーン式で、リヤは先代のドディオンアクスル式から、スタンダードでシンプルなつくりの半楕円リーフリジット式としています。

これは、冒険を避けてつくり込みの練度を上げることで、信頼性の高いクルマに仕上げるという意図が込められています。そのため、エンジンも初代から熟成が進められた富士精密工業設計の1.5L直列4気筒OHV「G-1」ユニットを搭載しています。

最大のポイントは“メンテナンスフリー”を謳ったことでしょう。1960年代は日本の自動車メーカーの製造の精度がまだ未熟だったため、頻繁な整備が必要とされていました。プリンスは差別化の目玉として、その整備の頻度を大幅に減らす策を講じて、大々的にアピールしました。その中心となるエンジンは、パーツの材質の品質向上や、摺道部の金属の表面処理技術の改良などによりタペット調整を長期間不要とし、2年間ないし4万kmを保証するメンテナンスフリーを実現。カムカバーに封印を貼ることで、その事を分かりやすく訴求していました。あわせてデスビやウォーターポンプへの給油も頻度を減らし、車体ではサスペンションアームなどへのグリス充填も、1年間ないし3万km不要としました。

また、見やすさを向上させた無反射ガラスをメーターに採用したり、プリント基板の導入で電装機器の耐久性を上げるなど、内装にも独自の技術が盛り込まれます。そして、先代ゆずりの高級感のある内装仕上げや、ラジオや時計などの装備は高級車に引けを取らないものでした。これが消費者のニーズにバッチリとハマり、好調な販売につながると共に、プリンスの技術力の高さをアピールすることにも成功します。

日本車の走りを一段引き上げたのが、この“GT”の登場

1960年代はレースが盛り上がった時代でもありました。それまではプライベーターによる草レースが各地でおこなわれていましたが、その盛り上がりの気配から、1962年に「第1回日本グランプリ自動車レース大会」というビッグイベントが開催されます。すでに主要メーカーはレースこそ技術力のアピールの場として認識していたため、かなり前のめりに参戦を目論んでいました。

しかし、主催者側は初回開催とあって、健全な競い合いを見せるため、メーカーが直接関与しないという“紳士協定”を内輪でメーカーに結ばせて行なうことにしました。トヨタや日産をはじめとする大手メーカーは裏で本気のマシンやプロドライバーを用意。実質ワークス体制で挑みました。その一方でスカイライン・スポーツで参戦するプリンスは、正直にメーカーとしては関与せずにレースに挑みます。結果は明白で、ワークスチューンの車輌の圧勝に終わります。その結果を宣伝に活用したメーカーはしっかりと売り上げを伸ばす一方、惨敗を喫したプリンスは売り上げが低迷しました。この結果に、自社の技術に誇りを持っていたプリンスの技術スタッフたちは愕然とし、直後から雪辱を果たすべく動き出しました。

ただの勝利では収められないと意気込む開発陣がはじめに目を付けたのは、モーターショーに参考出品していた「スカイライン1900スプリント」でした。しかしこの車輌はプロトタイプで、レギュレーションの「100台以上の生産台数」という規定を満たすことができません。そこで考え出されたのが、リリースしたばかりの2代目スカイラインのコンパクトなボディに、「グロリア・スーパー6」用の2L直列6気筒「G7型」エンジンをチューニングして搭載してしまうという大胆極まりないものでした。

作業は突貫工事で進められ、長い6気筒を収めるためにバルクヘッドから前を200mmも延長。結果的に前車軸の後方にエンジンの重心が位置するレイアウトとなり、結果としてハンドリングにも良い効果をもたらします。こうして規定の100台を作り上げ、主催の「JAF」に登録申請をおこないました。この際の車名が「スカイライン2000GT」で、型式は「S54型」でした。

こうして屈辱を味わったレースから1年後の「第2回日本グランプリ自動車レース大会」へと参戦を果たしたスカイラインは、その大幅な戦闘力アップから、ライバル不在と思われていました。しかし、事態は直前に転がります。トヨタが手本としたポルシェの競技用車両「ポルシェ・カレラGTS(904)」の参戦というニュースが舞い込みます。市販ベースで敵無しと思われたスカイラインも、さすがにレーシングマシンには太刀打ちできません。優勝での雪辱晴らしは絶望的となりました。

しかしレースは予断を許しません。予選でポルシェがクラッシュに見舞われ、マシンは大きなダメージを負います。その状態で迎えた本戦では、市販ベースのスカイラインが競技用のポルシェを煽るシーンが展開され、一時はトップに立つ場面もあり、観客が総立ちになるほど盛り上がりを見せました。

最終的にはポルシェがトップでフィニッシュし、優勝は逃しましたが、明らかな格上に食らい付く姿が印象に残り、直後に100台限定で発売された「スカイライン2000GT」はあっという間に完売。プリンスの雪辱は実質晴らされたと言っていいでしょう。この後、「スカイライン2000GT」は正式にカタログモデルとしてラインナップに加わり、スカイラインのイメージアップと売り上げに貢献しました。この後の「C10系」以降のモデルに4気筒と6気筒がラインナップされ、6気筒モデルが「GT」を冠する慣習はここから始まったのです。

2位に入賞した砂子義一選手のゼッケン39号車仕様のレプリカ。ちなみに日本GPで一時ポルシェを抜き去ったのはこのクルマではなくポールポジションを獲得して最終的に3位でゴールしたのはゼッケン41号車の生沢徹選手。

完全に別格の最新鋭ポルシェ904 を抑えて一時はトップを走るなど目覚ましいパフォーマンスで17万人の観衆を大いに沸かせた。

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