クルマが夢から現実に変わった1970年代初め、ユーザーは軽自動車にさえ特別なステイタスを求めるようになった。豪華、高性能、そしてかっこよさ。「2人だけのクーペ」のキャッチで登場した小さなスポーティ車にはそんな魅力が揃っていた。
●文:横田晃
リッター100馬力超えの高性能を絞り出した超個性派の軽スポーツ
多くの商品の進化の過程は、経済発展にともなう庶民の欲望の変遷にシンクロしている。「いつか欲しい」と憧れる貧しい時代に始まり、やがて手が届くようになると「もっといいもの」を欲しがるようになる。
そうして欲した機能性能が満たされるまでになると、次に欲しくなるのが「他人とは違う、自分だけの個性」。やがてそれにも飽きると「本当に自分が必要とする価値」が望まれるようになり、「自分でも気づいていなかった、新しい自分に出逢えるモノ」へと至るのだ。
人々の暮らしに密着した軽自動車は、まさにその通りの進化を遂げてきた。1955年にスズキが発売した初めての本格的な軽自動車、スズライトはまだまだ高価で、庶民には「いつかは……」と憧れる存在だった。発売から数年経っても月産わずか数十台という軽乗用車の市場環境の中で、スズキは2輪車での儲けとようやく伸びてきた商用車市場に支えられて耐え忍ぶ。 1958年のスバル360でクルマが庶民にも手の届く存在となり、1967年年に登場したホンダN360が高性能を謳って人気を呼ぶと、第一次馬力競争が到来する。スズキも31馬力を誇る空冷2ストローク3気筒エンジンを搭載した、フロンテSSを投入。イタリアの高速道路、アウトストラーダ・デル・ソーレにおける連続高速走行実験まで行って、高性能をアピールした。
そのエンジンを進化させた水冷ユニットから、リッター100馬力を超える37馬力を絞り出し、ジウジアーロのデザイン原案によるスタイリッシュなボディに積んだのが、1971年登場のフロンテクーペ。1960年代の10年間で、軽自動車は憧れの対象から、個性が求められる存在にまで到達したのだ。
そんな段階を経て、オイルショックや排ガス規制の影響で勢いを失った軽自動車市場に、次に求められる本質的な価値を提供したのもスズキだ。1970年をピークに軽自動車の販売台数が下がり続ける中1979年に全国統一価格の47万円で売り出した質素なアルトが、自転車代わりの経済的な足という、まさに軽自動車の本質を捉えて大成功するのである。
もともとのデザインはスポーツカーでなかったフロンテクーペ
フロンテクーペがジウジアーロの作品であることは知られているが、じつはその原型はスポーツカーではなかったという。ジウジアーロとスズキの関係は、彼がベルトーネからギア社を経て、自身のスタジオであるイタルデザインを設立してまもない1969年に登場した商用車のキャリイに始まる。それに続くジウジアーロの提案は、少し背の高い、今で言うモノフォルムの実用2ドア乗用車だった。
しかし、そのデザインにインスパイアされたスズキの社内デザイナーたちが、フロントマスクやウインドウの傾斜角、ボディサイドのプレスラインといったジウジアーロのセンスを活かしながら、パーソナルスポーツカーに仕立て直したのがフロンテクーペだったのだ。
階級社会のイタリアでは、スポーツカーは庶民には縁遠い乗り物だ。すでにモータリゼーションは成熟し、クルマを生活の道具としていた彼の地では、小さなクルマには、なによりも使いやすさや広さという本質が求められた。対して、当時の日本は軽自動車にもスポーツカーが求められていた時代。そこで、ジウジアーロのデザインを活かしながら、スズキの開発陣は日本の市場が求める軽スポーツカーを独自に作り上げたのだった。
もっとも、そんな時代は長くは続かなかった。豊かになった日本では、軽自動車ユーザーの多くが小型車以上に〝卒業〞し、若者の目もセリカやスカイラインギャランGTOなどの上級車に移っていった。3000回転以下は使えないほどカリカリにチューンされた高性能、しかも2シーターのフロンテクーペでは、ユーザー層も限られてしまう。
そこで、550㏄エンジンを積み、ボディも拡大され新規格軽となった後継車のセルボは、女性をターゲットとしたファッショナブルな実用パーソナルカーへと性格を変える。ただし、これは時期尚早だった。女性が当たり前のように免許を取得し、軽自動車を自分の足として自在に使いこなすようになるには、まだ少し時間がかかる。
こうしてスズキも軽自動車も1970年代は受難の時代になる。軽自動車の魅力が再認識され、スズキが元気を取り戻すには1978年の初代アルト登場まで待たねばならなかった。