
FIFAワールドカップ2026、ラウンド16のブラジル対ノルウェー戦。ハーフタイムに選手トンネルから現れたのは、スタッフでもマスコットでもない。Boston Dynamicsが開発した人型ロボット「Atlas(アトラス)」だった。
Atlasはハリー・ケイン選手やアーリング・ハーランド選手、マテウス・クーニャ選手、ソン・フンミン選手らのゴールセレブレーションを再現した後、主審へ公式試合球を手渡し、後半戦のキックオフをサポート。人型ロボットがFIFAワールドカップのライブ試合環境で運用されたのは史上初となる。
そして、この歴史的な演出を実現したのは韓国の自動車メーカー・Hyundai Motor Group(ヒョンデ)だ。
なぜヒョンデはクルマではなく、人型ロボットを世界へ見せたのか? 実はAtlasの登場は、ヒョンデが数年前から描いてきた壮大な構想の”答え合わせ”でもあった。その背景をたどると、ヒョンデが描く”クルマのその先”の未来戦略が見えてくる。
●文:月刊自家用車編集部
ワールドカップで史上初! 人型ロボット「Atlas」が試合球を主審へ届けた
Atlasが登場したのは、FIFAワールドカップ2026ラウンド16のブラジル対ノルウェー戦。選手入場口からピッチへ歩みを進めると、ハリー・ケイン選手やアーリング・ハーランド選手、マテウス・クーニャ選手、ソン・フンミン選手らのゴールセレブレーションを再現。その後、公式試合球を主審へ手渡し、後半戦のキックオフをサポートした。
世界中のサッカーファンが見守るワールドカップの舞台で、人型ロボットが試合運営という”役割”を担ったのは史上初。ライブ環境という予測不能な状況で正確に動作したことは、ロボティクス技術が研究段階ではなく、実用段階へ入りつつあることを印象づける出来事となった。
Atlasを開発したのは、米国のロボティクス企業Boston Dynamics。そして現在、そのBoston DynamicsはHyundai Motor Group傘下の企業となっている。
なお、会場に投入されたのはAtlasだけではない。
ヒョンデは今大会で四足歩行ロボット「Spot」も実際の警備業務へ投入。ダラスの国際放送センターやニューヨーク/ニュージャージー・スタジアムでは、4体のSpotが巡回警備を担当し、大会運営を支えていた。
人型ロボットによる試合演出だけでなく、四足歩行ロボットによる警備まで実施されたことで、「ロボットが支えるワールドカップ」という新たな姿も示されたのである。
この一連のパフォーマンスを支えたのは、Boston Dynamicsが開発した最新のロボティクス技術だ。
人間の動きをロボット向けに変換する「モーション・リターゲティング」、数千回のシミュレーションを通じて最適な動きを学習する「強化学習」、さらに全身の関節を協調制御する「ホールボディコントロール」を組み合わせることで、Atlasは世界中が見守るライブ環境でも安定したパフォーマンスを実現した。
また、非対称な姿勢での動的バランス制御やリアルタイムな重心移動への適応、高精度なモーター制御なども組み合わされており、大規模なスポーツイベントという特殊な環境でも見事に動作したのである。
Hyundai Motor CompanyのグローバルCMO兼エグゼクティブ・バイスプレジデントであるジー・ソンウォン(Sungwon Jee)氏は、「未来は想像の中にあるものではなく、すでに始まっていることを示したいと考えました」とコメント。「ロボティクスによって拡張される未来のモビリティを提示するとともに、ロボットが人類の進歩を支える信頼できるパートナーになり得ることを示していきます」と、今回の取り組みの狙いを説明している。
ワールドカップという世界最大級のスポーツイベントは、ヒョンデにとって「未来のモビリティ」を世界へ発信するショーケースでもあった。では、なぜ同社はここまでロボット開発に力を入れているのだろうか。
Boston Dynamics社が開発した四足歩行ロボット「Spot」。不整地や階段を軽快に移動できる。
Atlasを支えた3つのロボティクス技術
ワールドカップという世界中が注目するライブイベントで、Atlasが安定したパフォーマンスを披露できた背景には、Boston Dynamicsが培ってきた最先端のロボティクス技術がある。
今回のパフォーマンスを支えた主な技術は、大きく3つだ。
まず1つ目は「モーション・リターゲティング」。これは人間の動きを解析し、ロボットの身体構造に合わせて自然な動きへ変換する技術だ。ハリー・ケイン選手やアーリング・ハーランド選手らのゴールセレブレーションを滑らかに再現できたのも、この技術によるものだ。
2つ目は「強化学習(Reinforcement Learning)」。Atlasは本番前に数千回ものシミュレーションを繰り返し、試行錯誤しながら最適な動きを学習。実際の試合会場でも安定して動けるよう、AIが動作を最適化している。
そして3つ目が「ホールボディコントロール(全身制御)」だ。全身の関節や重心をリアルタイムで制御することで、歩行や方向転換、試合球の受け渡しといった一連の動作をバランスを崩すことなく実行できる。
これらの技術を組み合わせることで、Atlasは世界中の観客が見守るライブ環境でも正確かつ安定したパフォーマンスを実現した。今回披露された技術はイベント演出のためだけではなく、将来的には工場での作業支援や物流、危険作業など、人型ロボットが実社会で活躍するための基盤技術としても期待されている。
なぜヒョンデはワールドカップでAtlasを披露したのか
「そもそも、なぜヒョンデがワールドカップでロボットを披露したのか」と疑問に思う人もいるだろう。
実はヒョンデは1999年からFIFAのパートナーを務めており、現在は2030年まで「Official Mobility Partner」として契約を結んでいる。大会期間中は選手や大会関係者の移動を支える車両を提供するなど、ワールドカップをモビリティの面から支える重要な役割を担う。
しかし近年のヒョンデは、単なる自動車メーカーではなく、「Smart Mobility Solution Provider(スマートモビリティソリューションプロバイダー)」への転換を掲げている。その象徴が、グローバルキャンペーン「Next Starts Now」だ。
「未来はこれから訪れるものではなく、すでに始まっている」というメッセージのもと、EVやAI、ロボティクスなど、同社が描く未来のモビリティを世界へ発信している。
Atlasもその一環である。これまで公開してきた映像シリーズ「School of Football」では、Atlasがサッカーを学びながら成長していく姿が描かれてきた。そして今回、そのストーリーをワールドカップという世界最大級の舞台で現実の体験として披露した。
つまりAtlasは、単なるロボットのデモンストレーションではない。ヒョンデが描く未来のモビリティを、世界中へ発信するブランド戦略そのものだったのである。
では、なぜヒョンデはロボット開発をここまで重要視しているのだろうか。
日本の代表チームが乗ったバス。
Boston Dynamicsとは? 四足歩行ロボット「Spot」もヒョンデグループ
Boston Dynamicsと聞いて、多くの人が思い浮かべるのが四足歩行ロボット「Spot」だろう。
犬のような姿で歩くSpotは、すでに世界各地の工場や発電所、建設現場で”働いている”ロボットだ。人が立ち入りにくい危険エリアを巡回し、設備点検や温度測定、異音検知、ガス漏れ確認などを担当。夜間でも安定して稼働し、安全性向上や省人化に貢献している。
実はSpotは、ヒョンデグループ傘下の起亜(Kia)の韓国工場でも実際に試験導入されている。夜間巡回や設備監視などを担当し、生産現場の安全を支える存在となっているのだ。
Boston Dynamicsのロボットは、研究室の中だけで活躍する未来の技術ではなく、すでに実社会で価値を生み出す段階へ入り始めている。そしてこの流れは、四足歩行ロボットだけにとどまらない。
Boston Dynamicsは2026年1月のCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)で、量産モデルのAtlasを初公開。ヒョンデの子会社であるHyundai Mobisがアクチュエーター(駆動装置)の供給を担うことも合わせて発表され、両社は高い信頼性を持つ部品供給網の構築と、アクチュエーター開発・生産の加速に向けて協業するとしている。
さらにBoston Dynamicsは、AI開発で知られるGoogle DeepMindとの提携も発表。Atlasへ最先端のAI基盤モデルを統合し、より高度な認知能力を持たせる開発も進められている。
このAtlasは、ヒョンデの米国新工場「HMGMA(Hyundai Motor Group Metaplant America)」へ2028年までに導入され、部品供給などの物流業務を担う計画だ。つまり、ワールドカップで披露されたAtlasは未来のコンセプトではなく、数年後には実際の自動車工場で”働く”ことが予定されている。
ワールドカップで披露されたAtlasのパフォーマンスは、単なるショーではなく、こうした産業実装に向けた技術力を世界に示す狙いも兼ねていたと見ることができる。
Boston DynamicsのHPには、アトラスが荷物を運ぶ訓練を行う動画が公開されている
クルマづくりとロボット開発の共通点
自動車とロボットは、多くの技術が共通している。EVもロボットも、モーターやバッテリー、精密な制御技術が不可欠だ。エネルギーマネジメントやモーター制御といった技術は、両者で共通して活用できる。
AIや自動運転とも深く結び付く。ロボットはカメラやLiDAR、各種センサーで周囲を認識し、AIが状況を判断しながら動作する。これは自動運転車の仕組みと極めて近い。ロボット開発で培われた認識技術や制御技術は、将来のクルマにも還元されていくと考えられる。
人手不足という社会課題への対応Atlasが期待されるのは、重量物の搬送や危険作業、夜間作業など、人への負担が大きい仕事だ。少子高齢化や労働力不足が課題となる中、自動車業界では工場の自動化が重要テーマとなっている。
人型ロボットは、その課題を解決する切り札として期待されている。ワールドカップでAtlasを披露したのも、「ロボットを作っています」というアピールではない。ロボティクス開発そのものが、ヒョンデのモビリティ戦略の中核を担っていることを世界へ示す狙いがある。
ヒョンデが目指すのは「クルマメーカー」ではなく「モビリティ企業」
現在のヒョンデは、EV、SDV(Software Defined Vehicle)、AAM(先進エアモビリティ)、AI、ロボティクスを一体で開発し、「Smart Mobility Solution Provider」への転換を進めている。目指しているのは、クルマを売る会社ではなく、人やモノの移動を総合的に支える企業だ。
ワールドカップでAtlasを披露した理由も、「ロボット企業になりたい」からではない。”移動”というテーマを軸に、テクノロジーで社会課題を解決する企業へ進化していることを、世界中へ発信するためだったのである。
ワールドカップで注目を集めたAtlasは、単なる”未来のロボットショー”ではなかった。人型ロボットが世界最大級のスポーツイベントで実際に役割を果たしたことは、ロボティクスが研究室を飛び出し、社会実装の段階へ入りつつあることを象徴している。
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