それは60年前の偉業だった! 72時間スピードトライアルで16の世界新記録を樹立した「日本が誇る伝説のGTスポーツクーペ」。│月刊自家用車WEB - 厳選クルマ情報

それは60年前の偉業だった! 72時間スピードトライアルで16の世界新記録を樹立した「日本が誇る伝説のGTスポーツクーペ」。

それは60年前の偉業だった! 72時間スピードトライアルで16の世界新記録を樹立した「日本が誇る伝説のGTスポーツクーペ」。

日本の自動車史において、伝説として語り継がれる歴史的快挙のひとつが、1966年、茨城県谷田部のテストコースで実施された「トヨタ2000GT スピードトライアル」だ。連続72時間、平均時速206km/h以上で走り続けるという過酷な挑戦は、3つの世界記録と13の国際新記録を樹立し、日本の技術力を世界に轟かせた。市販車の優雅なイメージとは裏腹に、極限の戦いのために装飾を削ぎ落とした漆黒のコックピット、助手席を埋め尽くす巨大な計測器など、そこには記録達成のためだけに研ぎ澄まされたストイックな機能美が存在したのだ。

●文:横田晃(月刊自家用車編集部)

谷田部の45度バンクの設計速度は180㎞/h。200 ㎞/hオーバーの速度でも、わずかな修正操作で全開を保つことができた。

世界に通じるGTであれ! その証しに挑んだ速度記録

国産乗用車がようやく出現し始めた1950年代前半には、自前のテストコースを持つメーカーは存在しなかった。初代クラウンを開発していたトヨタは警察の協力を得て、国道1号線の一部区間を占有して高速性能の実験をした。富士重工(現・スバル)は、地元群馬県の赤城山に駆け上る山岳路で、スバル360の信頼耐久性や乗り心地、ハンドリングを開発したのだ。

世界に通用する国産車を作るためには、世界レベルの試験環境が必要だ。そうして、メーカー団体と当時の通産省(現・経産省)が協力して1961年に財団法人・自動車高速試験場を設立。1964年に茨城県谷田部町(現・つくば市)に、1周5.5㎞ の高速周回路が完成する。のちに自動車雑誌の最高速テストの聖地となる、”谷田部のオーバル“だ。

約1.5㎞ の直線を、半径400m の半円で結んだオーバルコースは最大45度のバンクを備え、設計速度は180㎞/h。1962年に竣工した鈴鹿サーキット、1966年の富士スピードウェイとともに、以後の国産車の高速走行性能の向上に大きな役割を果たすことになる。

同時にそこは、各メーカーが自社の技術を誇示するPRの場としても、注目されることになった。1960年代に入ると、各メーカーでテストコースの建設が進むが、部外者立ち入り禁止のそこでは、PR活動はしにくい。一方、谷田部は使用料さえ払えば、誰でも公開の高速イベントができたのだ。

谷田部テストコースの速度挑戦で最初に世界記録を樹立したのは、トヨタ2000GTではなくプリンスR380だった…が。

最初にそれを活用したのは、プリンス自動車だった。1965年に完成したプロトタイプレーシングカー、R380の高性能を宣伝するため速度挑戦会を開催。4つの世界記録をふくむ6つの国内記録を樹立する。ただし、これは正式記録には残らなかった。このコースはまだFIAに公認されていなかったのだ。

公認が取得されるのは翌1966年のこと。それを待っていたかのように、トヨタは2000GTで速度記録に挑んだ。

もともと、2000GTはル・マン24時間に代表される耐久レースで勝てるクルマを目指して企画開発されていた。事実、1966年5月の日本GPこそR380に負けたものの、翌月の鈴鹿1000㎞ では優勝を果たした。その余勢を駆って、10月1日に谷田部に乗り込んだのだ。

トヨタ2000GT スピードトライアル(レプリカ)

速度記録挑戦に使われたのは、初期モデルのレース仕様車。写真は1968年の同じく前期モデルであるが、マーカーランプの位置など多くの部分が異なる。

スピードトライアル車は、FIA(国際自動車連盟)の厳密な規定の下で速度と時間を正確に記録する必要だった。そのため、助手席スペースには、各種データを計測・記録するための機材が収められた大きな黒い計測器ボックスが装備された。

悪天候に見舞われながら成し遂げられた世界記録

谷田部に持ち込まれたマシンは、もともと5月の日本GPで福沢幸雄がドライブする予定だった個体。予選前のテスト中に出火し、出場を断念したクルマを、修復しての再挑戦だった。

全部で300台あまりしか作られなかったトヨタ2000GTは、発売前の1966年秋の段階では、すべて仕様が異なる試作車レベルのクルマしかない。記録挑戦用の専用マシンを新調する余裕は、トヨタにもなかった。

200㎞/h前後で3M型エンジンがもっとも調子よく回る7000rpmとなるよう、デフのギヤ比をセット。耐久性が心配されたクラッチは、ヤマハが開発中だった強化品をぎりぎりになって取り寄せた。

ステアリングを握るのは、トヨタのワークスドライバー。福沢幸雄、田村三夫、津々見友彦、鮒子田寛、2000GTの開発ドライバーでもあった細谷四方洋の顔ぶれだ。

10月1日に始まったトライアルは、途中、台風28号の余波による風雨に襲われながらも、順調に進んだ。一時的なプラグの失火という小さなトラブルだけで、4日間で1万6000㎞ あまりを走りきったのだ。

2000GTの世界記録は、わずか3か月でポルシェに塗り替えられてしまう

結果は、目標通り3つの世界記録をふくむ、13の国際記録を樹立。その成果は大きく報じられて、発売前のトヨタ2000GTの評判を煽った。

じつはそのわずか3か月後、2000GTの記録はポルシェによって塗り替えられてしまった。挑戦の場となった谷田部のコースも移転し、跡地にはつくばエクスプレスの駅やつくば市役所が立ち並んでいる。

しかし、1966年の谷田部で、2000GTは日本の自動車史上に、たしかに永遠の輝きを残したのだ。

もともとレース仕様車なので、インパネも市販車とはまったく異なる簡素なもの。それでも、ウッドリムのステアリングは流用されている。

ボンネットの穴は熱気を逃がすとともに、オイルやブレーキフルードの点検を容易にして、ピット作業時間を短縮するためだろう。

クラウン用の6気筒OHCをヤマハがDOHC化した3M型は信頼性が高く、レースや速度記録への挑戦でも真価を発揮した。

すばやく燃料を補給できるクイックチャージャーなどのレース装備が、ドライバー交代などの時間をふくめた平均速度の記録に貢献した。

トヨタ2000GTが樹立した世界記録

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