
●文:横田晃
「ビッグ3」が反対した法律「マスキー法」と、ホンダの逆転劇
世界で最も早く自動車が普及するモータリゼーションが起きたアメリカでは、1960年代にはその弊害が問題化していました。1940年代からカリフォルニア州などで発生していた、目をちかちかさせる光化学スモッグや酸性雨などの主な原因が自動車の排ガスと認定され、1963年には大気浄化法が成立して、排ガス削減が求められたのです。さらに1970年になると、排ガス中の一酸化炭素(CO)と未燃焼炭化水素(HC)、窒素酸化物(NOx)を1975~1976年以降の生産車では、それぞれ1970年型車の10分の1とすることを義務付ける、厳しい法律が定められました。
提案者の名を取ってマスキー法とも呼ばれるこの法律はもちろん北米で販売される日本車にも適用されるため、この時期に北米向けの輸出を大きく伸ばしていた日本のメーカーにも対策が迫られました。そもそも、急速に自動車が増えていた日本でも、排ガスによる環境汚染はすでに問題化していたのです。
1970年に東京の主要道路である環状七号線(通称環七)沿いの中高生が、目や喉の痛みを訴える事件が起きました。その原因が光化学スモッグによるものと判明して以来、各地で被害が発覚します。同じ1970年には、激しい渋滞で知られる東京都新宿区の牛込柳町交差点付近の住民の血中から高濃度の鉛が検出され、それが自動車エンジンのバルブ保護のためにガソリンに配合された鉛(いわゆる有鉛ガソリン)であることも明らかになりました。
それらをきっかけに、日本でもマスキー法と同様の厳しい排ガス規制が導入されることになりました。ガソリンの無鉛化も義務化されて、自動車メーカーは排ガスの有害成分低減と、無鉛ガソリンでも傷まないバルブの開発を進めます。
とはいえ有害物質を数年で10分の1に減らすのは、並大抵のことではありません。アメリカではフォード、GM、クライスラーの通称ビッグ3が揃って技術的に達成不可能と政府に大反対しました。
ところが、日本の新興メーカーであるホンダが1972年に発表したCVCCと呼ぶ革新的なメカニズムで、いち早くその規制値をクリアしてしまったのです。エンジンの主燃焼室の前に小さな副燃焼室を設け、そこで濃いめの燃料に点火して、主燃焼室の薄い燃料をキレイに燃やすという仕組みは、まさに独創的でした。狭いエンジンの頭上に複雑な形状の副燃焼室を加え、燃料の流れと点火を精密に制御する設計は、同社のスポーツカーのS500とはまた違う意味で時計のように精密でもありました。
ホンダ1300の失敗で環境・実用性重視へと転換したホンダ。シビックはスペース効率のいい2BOXを日本に根付かせ、後にCVCCエンジン車を追加し世界的な大ヒット車へ。
【ホンダ・CVCCエンジン】小さな副燃焼室で通常より濃い混合気に点火。それを薄い混合気の主燃焼室に伝播させ完全燃焼を促進。これがCVCCの基本原理になる。
それを搭載したシビックは、スーパーカブや世界初の4気筒大型オートバイ、CB750FOURなどで北米市場ではすでに知られていたホンダの名を広く轟かせました。堂々としたセダンが人気だったアメリカですが、当時は斬新だった2BOXのフォルムもエンジンともども革新的と評されて、たちまちベストセラーになったのです。
もっとも、このエンジンの完成は、ホンダの名物創業社長であった本田宗一郎を引退に導く引き金にもなりました。
何事につけ独創性を重んじた本田は、「水冷エンジンだって結局ラジエターの水を冷やすのは空気なんだから、最初から空冷のほうが合理的に決まっている」という独特の論理で、軽乗用車のN360に続く小型乗用車第一号のホンダ1300でも、オートバイのようにフィンのついたエンジン本体をもう一重の外殻で包んだ、オールアルミ製二重構造の凝った空冷エンジンを開発させました。しかも、1.3Lの排気量では当時類を見なかった、100馬力の高性能も実現させたのです。
ところが、小さなN360では問題なかった空冷方式も、1969年に発売された1300では、構造が複雑すぎて水冷エンジンより重く、前輪だけが異様に減って操縦性にもクセがあり、暖房も効かないなど多くの欠点が出て、商業的には大失敗してしまったのです。そしてなにより、エンジン温度の管理が水冷より難しい空冷では、燃料をきれい燃やさなければ実現できないマスキー法のクリアは絶望的でした。
2輪ではすでに世界一でしたが4輪ではまだよちよち歩きだったホンダは、そのために倒産さえ囁かれる事態に陥ります。それでも、本田は当時参戦していたF1マシンまで同様の空冷としてその優秀性を証明しようとしたのですが、最後には困り果てた部下が藤澤副社長に頼み込んで諦めさせたのです。
そうした騒動の中で、部下が半ば本田から隠れるようにして研究開発した革新的な水冷エンジンが世界初の偉業を達成します。それを潮時として藤澤が引退を表明すると、本田も従い、揃って第一線を退いたのでした。
※本稿は、内外出版社発行「教養としてのニッポン自動車産業史」を再構成したものです。
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