[懐かし名車旧車] マツダ コスモスポーツ:飛び抜けた性能で世界を驚かせた、高性能スポーツカー

マツダ コスモスポーツ

その革新的2シータースポーツカーは、未来をイメージして「コスモ」(イタリア語で“宇宙”を意味)と名付けられた。0-400m加速16.3秒というカタログ値、100km/hの高速走行でも普通に会話ができる静粛性は、当時のクルマでは画期的。いち早くテレスコピックステアリングを採用するなど、ドライビングポジションにもしっかり目を向けていたことも、マツダらしいところだ。

●文:横田晃(月刊自家用車編集部)

独自技術を持たなければ生存競争に生き残れない…、そんな時代が呼び寄せた挑戦

戦後の荒廃からよちよち歩きを始めた日本の多くの産業は、政府の指導と庇護の下で礎を築いた。ところが実力が付くにつれて、その庇護がかえって業界の邪魔をする機会も増えてくる。1965年の完成自動車輸入自由化を前にした通商産業省(現・経済産業省)の業界再編への動きは、まさにそれだった。

日本は1952年にIMF(国際通貨基金)に加盟し、1953年にはGATT(関税および貿易に関する一般協定)にも仮加入していた。しかし、まだ途上国だった当時の日本では、それらが求める貿易や為替の自由化は国内産業に大きな打撃を与えるという理由で、輸入制限と為替制限ができるという留保条件をつけていた。

だが、日本経済が急速に回復したことで、国際社会におけるそんな特別扱いは許されなくなった。そうして、1961年にまずはトラックとバスの完成車輸入が自由化され、乗用車も1965年に自由化されることが決定したのだ。

1960年当時の日本には、すでに9社もの乗用車メーカーが林立しており、市場規模に対して過剰な状態にあった。そこで当時の通産省は、輸入自由化までに乗用車メーカーを量産車グループ/スポーツカー&高級車グループ/軽乗用車グループの3つに集約して、国際競争力をつける構想を掲げたのだった。

それが実行されれば、中小メーカーが大手メーカーに呑み込まれることは必定。小型トラックを主力とし、1960年のR360クーペで軽乗用車に進出したばかりだった当時の東洋工業(現マツダ)には、独自技術の確率や人気モデルの開発が生き残りのための絶対条件となった。

「夢のエンジン」とまで言われたロータリーエンジン、その開発当初は難題だらけ

フェリックス・ヴァンケル博士が発案したロータリーエンジンの開発に、NSU(現アウディ)が成功したというニュースが当時の西ドイツから飛び込んできたのは、そうした動きが進む1959年のことだ。

世界のエンジンメーカーが“夢のエンジン”とそれに飛びつき、日本からもトヨタや日産を含む34社もがライセンス契約獲得に手を挙げる中、東洋工業は駐日西ドイツ大使の支援を得て、1961年に他社に先がけて正式契約に成功する。

しかし、一方的な条件(東洋工業が新たに取得した特許はNSUに無条件で提供/ロータリーエンジン搭載車の販売には1台ごとにロイヤリティ発生等)を呑んでまで手に入れたそれは、実用にはほど遠いとんでもない代物だった。

NSUの設計図を基に試作された1ローターのエンジンは、もうもうたる白煙を吹き、わずか数百kmの走行で焼きついた。分解してみると、ローターハウジングには原因不明の傷跡が残っていた。東洋工業の開発陣が「かちかち山」「悪魔の爪痕」と呼んだその問題を始めとする多くの課題が、ロータリーエンジンにはあったのだ。

47人のエンジニアによる血の滲むような努力の結果、ロータリーエンジンは実用化へ

1963年に東洋工業社内に発足したロータリーエンジン研究部で解決に挑んだのは、のちにマツダの社長/会長となる山本健一氏をリーダーとする47人のエンジニア。平均年齢25歳という若き彼らは、いつしか赤穂浪士になぞらえて四十七士と呼ばれるようになった。

“悪魔の爪痕”ことチャターマークは、レシプロエンジンのピストンリングに当たるアペックスシールの振動で発生することを突き止めた彼らは、さまざまな材料を試し、カーボンを含浸させたアルミ合金というハイテク素材でついにその問題を解決する。

白煙を吹いて走る“かちかち山”の原因となった大量のオイル消費は、各部のシール材の改良などで地道につぶした。さらに低速トルクの弱さを解決すために、NSUの設計ではローターハウジング側方から吸気していたペリフェラルポート式から、サイドハウジング側に吸気口を持つサイドポート式へと変更。独自の冷却方式などを工夫して、より滑らかな2ローターも実現させた。

ただし、四十七士が血の滲む努力を積み重ねて実用化にメドをつける一方で、本家のNSUやライセンスを取得した世界のメーカーでは、そうした問題の解決が遅れた。結果として「ロータリーは信頼耐久性に欠ける欠陥エンジン」という風評も生まれてしまったのだ。

47人の若い技術者で作られたロータリーエンジン研究部。問題のアペックスシールの材質には、馬や牛の骨まで、あらゆるものが試されたという。

チャターマークと呼ばれたローターハウジングに発生する異常摩耗がエンジン開発最大の難関となった。研究部はアペックスシールの振動という原因を突き止める。左の写真は、1961年NSUから最初に送られてきた386cc1ローターの試作エンジンKKM400型。

酷評されたロータリーエンジンの信頼を回復させたのは、コスモスポーツだった

それらを払拭しなければ、ロータリーエンジンが市民権を得ることはできない。そのために、搭載車のコスモスポーツは1963年の全日本自動車ショーで存在が明かされた後、十分な信頼耐久性を実現するべく地道なテスト走行を繰り返し、1967年にようやく発売にこぎつける。

1968年のニュルブルクリンクでの耐久レースで4位を獲得するなど、ロータリーエンジンの実力はたちまち証明される。東洋工業は世界にその技術力の高さを証明した。

軽量&コンパクトなロータリーエンジンの特徴をもっとも活かせるのは、やはりスポーツカーだ。1165mmという、当時の日本車としては極めて低い車高を持つコスモスポーツのフォルムが、社内のデザインチームの手で生み出された。当初、コスモスポーツを市販することは考えていなかったことから、松田社長は若手デザイナーに思い切ったスタイルにするよう指示を出した。ロータリーエンジンだから実現した低いボンネットは、獲物に襲いかかる豹をイメージしたものという。

コスモスポーツが発売された1967年には、トヨタ2000GTも世に出ている。ともに今日に至るまで名車に数えられているが、その意味合いはまったく違っている。前年にカローラを送り出していたトヨタは、すでに世界を窺う段階だったのに対して、東洋工業は国内でもオート3輪が稼ぎ頭。まして世界ではまったくの無名だった。

しかし、コスモスポーツはその美しさと革新性で世界を驚かせ、20余年前に被爆地として注目された広島に、ロータリーエンジンの地として再びスポットライトを当てたのだ。

コスモスポーツ前期型(L10A型)

【前期型L10A型】当初、市販することは考えていなかったことから、松田社長は若手デザイナーに思い切ったスタイルにするよう指示を出した。数十台も作られた試作モデルと4年にも及んだテスト走行。膨大な開発費を投じたわりに148万円という価格は採算を度外視したもの。“5万kmの保証”を付けるほど信頼性には自信を持ち、またその性能も飛び抜けていたが、1176台が生産されただけで終了してしまった。

【10A型ロータリーエンジン】前期型に積まれた110馬力の2ローターロータリー。当初は1ローターの研究もされていたが、最終的に2ローターに決まる。400cc×2で始まり、491cc×2のこの10A型がマツダ初の市販ロータリーエンジンとなった。

全面にクラッシュパッドが張られた計器盤まわり。丸形7連メーターは、速度計と回転計を中心に、右に油温計/水温計、左に時計/燃料計/電流計が並ぶ。回転計のレッドゾーンは7000rpm。木製リムのステアリングは60mmの前後調整が可能。

シートはモケットとレザーのコンビ。シートの後ろには小物を置くトレイと荷物を固定するベルトが付いていた。当時としては異例なほど短いシフトノブを採用。※写真は後期型

トランクはデザイン的な制約もあり、かなり浅めになっている。

発売前からプロトタイプはたびたびショーに展示され、コスモスポーツとロータリーエンジンは常に大きな注目を集めた。※写真は第11回東京モーターショー

コスモスポーツ後期型(L10B型)

【後期型L10B型】前期型と後期型の外観上の違いは、ラジエターグリルの形状。また後期型はフロントディスクブレーキの冷却用ダクトが付く。リクライニングシートやクーラーが装着可能になるなど、パワーだけでなく快適性もアップした後期型。

ロータリーエンジンだから実現した低いボンネットは、獲物に襲いかかる豹をイメージしたもの。

コンパクトなロータリーエンジンだからこそできた低く構えた精悍なフロントマスク。

ロータリーエンジンを積むスポーツカーとして、デビュー数年前から注目の的となっていたコスモスポーツは、エンジンやデザイン以外にも先端技術の導入が宿命となった。

コスモスポーツ主要諸元

コスモスポーツの変遷

ロータリーエンジン苦難の歴史〜サバンナRX-7の成功へ

コスモスポーツの前期モデルでは職人が旋盤で削りだす手作りのローターなど、試作車に近い設計だったロータリーエンジンは、その後の研究と熟成でアペックスシールやサイドハウジングの鋳鉄化を始めとするコストダウンにも成功。ファミリアを皮切りにその搭載車種を増やしていく。

1970年代前半にはいち早く排ガス規制にも適合するが、今度はそれがアダとなる。彼らが採用したサーマルリアクター方式という浄化システムは、燃費にはネガティブな機構。折からの石油ショックもあいまってガス食い虫の汚名を着せられたロータリーは、実用車に向かないという烙印を押されてしまうのだ。

しかし、1978年のサバンナRX-7で、彼らはふたたびその魅力を世界に認識させる。軽量で高性能/低燃費化と高性能化も進め、RX-7は「ロータリーロケット」の愛称で北米でも人気となる。フォード傘下となっても、ロータリーはマツダの個性として認められたのだ。

「ロータリーロケット」という愛称で親しまれたサバンナRX-7(SA22)。コスモスポーツが築き上げたロータリースポーツは不死鳥の如く蘇ったのだ。

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