「街のヘリコプター」??? 昭和の路地裏を駆け回った伝説の小型三輪自動車│月刊自家用車WEB - 厳選クルマ情報

「街のヘリコプター」??? 昭和の路地裏を駆け回った伝説の小型三輪自動車

「街のヘリコプター」??? 昭和の路地裏を駆け回った伝説の小型三輪自動車

荷台付き二輪車やリヤカーをルーツに持ち、日本の戦後復興を力強く支えた「オート三輪」。安価で小回りが利き、税制面でも有利な実用車として大活躍した。戦前は運転免許すら不要だったこの乗り物も、やがて道路網の整備が進み、より高い性能が求められるようになると、転倒しやすいといった弱点から急速に衰退への道を歩み始めるのだ。しかし、そんな時代の流れに抗うかのように、空前の「軽オート三輪ブーム」を巻き起こした歴史的名車が誕生した。「ダイハツ・ミゼット」である。

●文:横田晃(月刊自家用車編集部)

荷台付き二輪車、ひいてはリヤカーをルーツとするオート三輪は、戦前まで運転免許がいらなかった。戦後になって免許取得が義務付けられるものの、それでも安価で小回りが利き、税金面でも有利なオート三輪は、日本の戦後復興を大いに支えた。

狭い路地でもスイスイと入り込める、「小回りの良さ」と「機動力」という理由から、“どこでも行ける”という意味合いで付けられたキャッチフレーズだった。

商店の小口配達はもちろん、郵便局や消防、電力会社などでも重宝され、パトカーとして使われたミゼットもあった

ミゼットは当時の日本でもっとも小さく、小回りが利いて、経済的なトラックだった。酒店やクリーニング店といった、街の商店の小口配達はもちろん、郵便局や消防、電力会社などの現場でも重宝され、パトカーとして使われたミゼットもあった。

そうして、ミゼットはCM放映開始の翌1959年1月にはたちまち生産累計1万台を達成。さらに1年後には5万台、その年の10月には10万台の生産を記録するほどの大ヒットとなった。

ミゼットDKA型

最大積載量は300㎏だが、小回りが利き商店街の小口運搬車には最適だった。当初月産500台の計画だったが、MP型のピーク時には月産8500台を記録。

DKA型(1957年標準型)
●全長×全幅×全高:2540㎜×1200㎜×1500㎜●ホイールベース:1680㎜●車両重量:300㎏●エンジン(ZA型):強制空冷単気筒2サイクル249㏄●最高出力:10HP ●最高速度:60㎞/h●最小回転半径: 2.1m●燃料タンク容量:10L ●最大積載:300㎏ ●トランスミッション:前進3段・後進1段●タイヤサイズ:5.00-9(4P)●乗車定員:1名 ◎価格:18万4000円

自動車らしい丸ハンドルやドアを備えた2人乗りのMP型へと進化。東南アジアでは、トゥクトゥクのベースとして今も活躍している

1957年に登場した当初のDKA型は、排気量わずか250㏄。ドアもない吹きさらしのキャビンにオートバイのようなバーハンドルの1人乗りだった。1959年秋には自動車らしい丸ハンドルやドアを備えた2人乗りのMP型へと進化。同年暮れには排気量も305㏄に拡大され、スタイルがキュートになったことも人気に拍車をかけた。

ダイハツがミゼットの開発に着手した1953年当時の軽自動車規格では、2ストロークは240㏄まで。1955年に360㏄へと拡大されたが、ミゼットは開発初期のサイズのまま、可能な範囲で排気量を拡大しただけで発売された。それが、一番小さく、小回りが利いて経済的という売り文句ともなった。

MP型は左ハンドルも作られ、北米に輸出されて広大な工場内の構内車などに使われた。東南アジアや中東にも輸出。タイでは今でも、それをベースとしたトゥクトゥクと呼ばれる三輪車が現地の中小メーカーによって作られ、タクシーとして活躍している。

ミゼットが登場した当時の軽自動車は、庶民のマイカーとしては高価で、市場の将来性はまだまだ危ぶまれていた。しかし、ミゼットによって、まずは手軽な商用車として人々に認知され、前後してスバル360が登場したことで、日本人の暮らしに根づくのだ。

丸ハンドルをウリとした当時の雑誌広告

ミゼットMP5型

丸ハンドルに鋼板ドア、2人乗りのシートと大幅な進化を遂げたMP型。

1962年式のMP4型。ルーフは幌、ちなみにMP5型はスチール製。シートはソフトなラバークッション。スライド式のサイドウインドウと開閉式の三角窓を採用。荷箱(当時は荷台をこう呼んだ)は後部扉がチェーン開閉式。フック付きでオプションの幌の取り付けも楽(カタログには3分とある)。最大積載は350kgに拡大。荷台の床は幅1100㎜×長さ1160㎜。真四角なので使いやすい。

350㎏の積載でも、最高速度65㎞/hで走った2サイクル305㏄エンジン。

MP4型(1962年標準型)
●全長×全幅×全高:2885㎜×1296㎜×1510㎜●ホイールベース:1810㎜●エンジン(ZD型):強制空冷単気筒2サイクル305cc ●最高出力:12HP ●最高速度:80㎞/h●最小回転半径: 2.6m●燃料タンク容量:15L●最大積載:350kg ●トランスミッション:前進3段・後進1段●タイヤサイズ:前5.00-9-4P/後5.00-9-6P●乗車定員:2名 ◎格:22万8000円

かつて軍需産業を担っていた大メーカーも民生用としてオート三輪に参入

戦争で荒廃した日本の復興期になによりも必要とされたのは、バスやトラックなどの商用車だ。戦時中は軍用の大型トラックなどを作っていたトヨタや日産、日野やいすゞは、早くから生産を再開して、旺盛な復興需要に応えた。

戦前から、オート三輪の2大メーカーだったダイハツと東洋工業(現マツダ)も、戦前型の生産を再開し、こちらは商店などの小口の需要を満たしていった。一方で、戦争中には航空機や軍艦などを手がけていたメーカーも、技術を活かして民生用の乗り物作りに乗り出した。

工場に残されていた軍用資材を使い、中島飛行機(現富士重工)はラビット号、三菱の航空機部門はシルバーピジョン号というスクーターを開発して好評を得た。ラビットは陸上攻撃機「銀河」の尾輪を使って開発され、三菱がスクーターに続いて開発したオート三輪のみずしま号の荷台には、航空機用のジュラルミンが使われていたのだ。

乗用車はまだ庶民には夢の商品。一方オート三輪やトラックなど商用車は戦後復興の主役として街を走り回っていた。

新規参入メーカーが次々と脱落していく中、ダイハツとマツダは確固たる地位を確立していった

中でも比較的簡単に作れるオート三輪の分野には、愛知機械や明和興行など、旧軍事メーカーが数多く参入。中小メーカーもふくめて、たちまち激戦を繰り広げた。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による自動車の生産制限が解かれて間もない1952年には、小型乗用車の生産台数が年間でわずか5000台足らずだったのに対して、オート三輪はなんと月に4000台。

1954年には年間10万台も生産される活況を呈している。その中でも、ダイハツとマツダという2大ブランドは大きなシェアを占め、ライバルメーカーが次々と脱落していく中で、確固たる地歩を固めていった。

一人乗りのシートにまたがりバーハンドル(二輪からの乗り換えでも戸惑わない)を操作。変速レバーはシート直前で、操作はしやすいとはいえなかった。

足元のカバーを外すとエンジンや補器類が現れる。メンテナンス性は良さそうだ。

エンジンがキャビン下にあるため、乗員はエンジンをまたがるように座ることになる。

トヨタや日産などの大メーカーは小型四輪車へ移行する中、ミゼットは軽快な貨物車としてシェアを維持した

ただし、トヨタや日産などの大メーカーは、再興後の日本を見据えて、次のステップに踏み出していた。トヨタは独自技術で乗用車作りに挑み、日産や日野、いすゞは、それぞれオースチンやルノー、ヒルマンなどの外国車のノックダウン生産で学びながら、小型四輪車作りの技術を確立していく。1955年には、トヨタが初の本格純国産乗用車、クラウンを発売。同年に日産もオースチンでの経験を活かした小型車のダットサンを売り出す。

庶民にとってマイカーはまだ遠い夢だったが、日々豊かになる高度経済成長は、「いつかはマイカー」という夢を人々に抱かせた。復興とともに、トラックやバスも大型化、高級化を指向し、オート三輪もサイズや装備を拡充する一方、中小企業も四輪トラックに手が届くまでに成長していった。そんな中で、オート三輪の原点に帰った軽便な貨物車としてミゼットは登場して、成功したのだ。

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