なぜなのか…全然違う場所に「鎌倉街道」がある理由

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●文:[クリエイターチャンネル] Peacock Blue K.K.

鎌倉街道は鎌倉地域に存在する道だと誤解されがちですが、一般的には中世の日本において鎌倉へ至る主要な交通路を指します。

1185年から1333年は鎌倉時代(諸説あり)と呼ばれ、鎌倉が実質的な政治の中心地であり、多くの貴族や武士がここを訪れました。

そのため都から鎌倉へ至るための道路が必要となり、それが後に鎌倉街道として知られるようになりました。鎌倉にあるから鎌倉街道と呼ぶわけではないので、注意しましょう。

そもそも鎌倉街道は時代とともにいくつかの異なるルートが存在し、それぞれが異なる地域を結びつけていました。

そのため、鎌倉街道の名前は日本全国のさまざまな場所で見ることができます。

ではいったいなぜ、鎌倉街道は他の地域に存在しているのでしょうか。

いったいなぜ? 全然違う場所に鎌倉街道がある理由・由来とは

鎌倉街道が他の地域に存在する理由や由来については、さまざまな要素が絡んでいると考えられます。

鎌倉時代には、鎌倉が政治・文化の中心地として栄えていたため、鎌倉街道は鎌倉市を起点として各地を結ぶ重要な道路として整備されました。

鎌倉街道は鎌倉幕府の発展と共に交通の要衝となり、各地へと広がっていったのです。

「鎌倉街道」と名のつく道路は、全国各地に点在している。

しかし、時代の経過や道路の変遷により、元々の鎌倉街道の経路が変わったり、新たな道路が整備されたりしたことで、鎌倉街道が鎌倉市とは無関係な場所に存在するようになりました。

その結果、鎌倉街道という名前が付けられた道路が、鎌倉市とは全く異なる地域に残されることとなったのです。

さらに、地域の景観や自然環境などが鎌倉街道と関連性を持っている場合、地元の人々が鎌倉街道という名前を使うことで、その地域の魅力を引き立てたり、観光資源として活用したりする意図があるのかもしれません。

地域の歴史や文化を尊重し、鎌倉街道の名前を継承することで、地域のアイデンティティを示す一環とも考えられます。

鎌倉時代に存在した鎌倉街道とは?

鎌倉に至るためのルートとなっていた鎌倉街道は主に4つのルートが存在していました。

まず​​東海道鎌倉街道は東京の日本橋から鎌倉に至るルートで、中山道鎌倉街道は中山道の終点である京都から鎌倉に至るルート。

また、甲州街道鎌倉街道は甲州街道の終点である甲府から鎌倉に至るルートで、日光道中鎌倉街道は日光から鎌倉に至るルートです。

これら4つの主要な鎌倉街道が過去には存在しており、現在でも一部の地名にその名が残っています。

完全に同じルートを辿る現代の道路は必ずしも存在しないので注意しましょう。

現在の鎌倉市は、観光地として多くの観光客で賑わっている。

なお、当時の交通の要所として整備された鎌倉街道は、鎌倉幕府の政治・文化の中心地である鎌倉と各地を結ぶ重要な道路であり、交通の便を図るために広く造られていました。

鎌倉街道の道幅については、具体的な数値を特定するのは難しいですが、幅広い道路とされています。

当時は馬や人が通行するのに適した幅員が確保されており、交通の円滑な流れを支えるために広く設計されていたと考えられます。

しかし、時代の経過や都市化の進展に伴い、現代の鎌倉街道は一部残っているものの、道路改修や建物の拡張などにより道幅が狭くなっている場所もあります。

現代の交通事情や都市計画に合わせて道路が整備され、幅員が縮小された結果と言えるでしょう。

このように鎌倉街道は鎌倉時代に作られた、鎌倉に至るための主要なルートを指します。

歴史的な道路であり、その名前が他の地域にも残されている背景には、地域の歴史や文化、道路の変遷など多くの要素が関与しています。

現在では姿を変え、全く同じ道は存在していませんが、その時代の名残として鎌倉街道という名前が使用されている地域も多いです。

それぞれの鎌倉街道の背後にあるストーリーや特徴を深く探求することで、地域の魅力や歴史をより理解することができるでしょう。

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