「国産車のデザインを根底から変えた…」時代を先取ったスーパーソニックラインが印象的な60年前の日産車。海外でも評価が高かった大ヒットモデル[ダットサン・ブルーバード(510型)]│月刊自家用車WEB - 厳選クルマ情報

「国産車のデザインを根底から変えた…」時代を先取ったスーパーソニックラインが印象的な60年前の日産車。海外でも評価が高かった大ヒットモデル[ダットサン・ブルーバード(510型)]

日産自動車が世界に誇る旧車の名車「ダットサン・ブルーバード(3代目・510型)」。1955年登場のダットサン110型から続く頑健さを受け継ぎ、1967年に誕生した510型は、「スーパーソニックライン」と呼ばれる直線を基調とした革新的なデザインを採用しました。新開発のL型エンジンや四輪独立懸架を備え、“技術の日産”を決定づけた傑作の歴史と魅力を解説します。

●文:月刊自家用車編集部

日本のモータリゼーション黎明期、クルマ造りの最優先課題は“壊れない”こと

1950年代、海外メーカーの技術を吸収しながら乗用車造りを始めた日本の自動車メーカーとユーザーにとって、何よりも重視されたのは「壊れない」ことでした。 現在では世界最高水準の信頼性と耐久性で知られる日本車ですが、一級国道でさえ未舗装の悪路が多かった当時の道路状況においては、ハンドリングや乗り心地を追求する以前に、ごく普通に壊れずに走れるクルマを作ることが第一の目標だったのです。

英国・オースチン車のノックダウン生産で乗用車造りを学んだ日産自動車が、戦後初の本格的な自社開発乗用車として1955年に発売した「ダットサン乗用車(110型)」は、オースチンの流麗さとは異なり、無骨そのもののデザインを採用していました。その改良型として1957年に登場した「ダットサン乗用車(210型)」も同様のスタイリングでしたが、頑丈さにおいては比類なきレベルに達していました。

ダットサン乗用車(113型)
並行して発売されたダットサン・トラック(120型)も好評で、発売後1か月で受注が2000台を超えました。同年11月にグリルデザインを変更した112型、翌年6月にコラムシフトを採用した113型(写真)が登場しています。

その実力を世界に証明したのが、1958年に挑戦したオーストラリア一周ラリーです。出走67台中、完走はわずか34台という過酷なラリーにおいて、日産が投入した2台のダットサン210型(富士号・桜号)は見事に完走。富士号はクラス優勝、桜号はクラス4位という快挙を成し遂げました。 ちなみに、このラリー参戦を発案したのは、後に北米日産社長として「日産・フェアレディZ」開発の音頭を取ることになる片山豊氏。そしてチーム監督は、後に日産のモータースポーツ子会社であるNISMO(ニスモ)の初代社長となる難波靖治氏でした。

ダットサン乗用車(211型)
性能向上のため、新開発となる排気量1000ccのOHVエンジン(C型・34馬力)を搭載。フロントにカーブドガラスを採用するなど、海外への輸出も考慮して設計されました。写真は210型の改良モデルである211型です。

“技術の日産”という名声を確立するきっかけとなったその頑健さは、続くモデル群にも確実に継承されていきます。1959年に初めて“青い鳥”の名を冠して誕生した初代「ダットサン・ブルーバード(310型)」は、信頼性に加えて高い走行性能も両立し、海外ラリーでも活躍し始めました。 続く1963年登場の2代目ブルーバード(410型)では、イタリアのピニンファリーナによる流麗なデザインを採用。国内では革新的すぎたため販売面で苦戦したものの、国産車初の「SS(スポーツセダン)」や「SSS(スーパースポーツセダン)」という高性能グレードを誕生させました。

初代 ダットサン・ブルーバード(310型)
110型・210型の後継として、1959年に初めて「ブルーバード」の名が与えられました。いち早く女性仕様車やオートマチック(AT)車をラインナップに加えるなど、ライバルのトヨタ・コロナを大きく凌駕しました。

こうした技術と経験の積み重ねの集大成として、1967年に登場したのが3代目「ダットサン・ブルーバード(510型)」です。スポーツセダンの名に恥じない優れた走行性能と信頼耐久性を兼ね備え、世界にその名を轟かせることになります。

日産「ブルーバード」対トヨタ「コロナ」の熾烈なBC戦争で、日本車が進化

日産・サニーやトヨタ・カローラといった大衆車が登場する以前、日本のマイカー市場の主役は、ダットサン・ブルーバードとトヨタ・コロナでした。この2車種による熾烈な販売競争は「BC戦争」と呼ばれました。

最初に市場をリードしたのはブルーバードです。初代である310型には、オルゴール付きのウインカー作動音などを備えた日本初の女性仕様車(ファンシーデラックス)や、本格的なエステートワゴンも設定されるなど、先進性とファッション性でライバルであるトヨタ・コロナを圧倒していました。

一方、トヨタ・コロナの初代モデル(ST10系)は、当時のヘビーユーザーであったタクシー業界を意識した頑健な造りが特徴でしたが、デザインの魅力に欠け、マイカーユーザーからの支持は得られませんでした。挽回を期して1960年に登場した2代目コロナ(PT20系)は洗練されたデザインを採用したものの、今度は耐久性が不安視されタクシー業界から不評を買ってしまいます。両方のニーズを的確に満たすブルーバードの背中は遠いものでした。

しかし、2代目ブルーバード(410型)のデザインが予想外の事態を引き起こします。ピニンファリーナの手による欧州風のフォルムは、リアエンドが下がる「尻下がり」デザインと評され、当時の日本の消費者には受け入れられませんでした。 この隙を突き、1964年に登場した3代目トヨタ・コロナ(RT40系)は、「アローライン」と呼ぶ傾斜したフロントノーズの直線基調デザインで大ヒットを記録。日本初の2ドアハードトップも投入し、ついに販売台数でブルーバードを逆転したのです。

2代目 ダットサン・ブルーバード(410型)
イタリアのピニンファリーナによる流麗なデザインと、日産初のフルモノコックボディを採用して異彩を放ちましたが、「尻下がり」と評され販売面では苦戦。直線的なアローラインを掲げたトヨタ・コロナの後塵を拝しました。

3代目 ダットサン・ブルーバード(510型)

覇権奪還を賭けて、日産が1967年に世に送り出したのが3代目ブルーバード(510型)でした。ここで採用されたのが、コロナのアローラインを凌駕するほどシャープな「スーパーソニックライン」と呼ばれるデザインです。前作の反省から直線を強調し、余計な装飾を削ぎ落としたボクシーなフォルムは極めて斬新でした。

3代目 ダットサン・ブルーバード 2ドアクーペ(510型)
日本車初のピラーレスを謳い人気となったコロナ2ドアハードトップに対抗して、1968年11月に追加された2ドアクーペ。

テールランプには、細いメッキのラインが入っているのが特徴的。直線的でシャープなデザインは「スーパーソニックライン」と呼ばれた。

日本車としていち早くフロントドアの三角窓を廃止したクリーンな佇まいは、社内デザインながら均整が取れており、海外でも「欧州の高級スポーツセダン(BMW 1600など)に通じる美しさがある」と高く評価されました。 後に追加された2ドアクーペでは、ウインカー作動時にテールランプが内側から外側へ流れるように点灯する「連鎖式点灯(流れるウインカー)」も話題を呼びました。

3代目 ダットサン・ブルーバード(510型)
510型は海外市場での展開も強く視野に入れており、北米の厳しい安全基準に適合させるため、車内にロックの突起物ができるフロントドアの「三角窓」を日本車としていち早く廃止したともいわれています。

メカニズム面でも、新開発のSOHC機構を持つL型エンジンを搭載。さらに、リアにセミトレーリングアーム式を採用した四輪独立懸架サスペンション(セダン・クーペモデル)は、当時の国産車の常識を覆す先進的な足回りでした。伝統の頑健さはそのままに、革新的なデザインと最先端の技術を融合させた510型ブルーバードは、北米市場でも「プアマンズBMW」と称賛されるほどの成功を収め、名車としての地位を不動のものとしました。

510型は海外市場での展開も強く視野に入れており、北米の厳しい安全基準に適合させるため、車内にロックの突起物ができるフロントドアの「三角窓」を日本車としていち早く廃止したともいわれています。

直線的なデザインが特徴的な、3代目 ダットサン・ブルーバード(510型)のテールランプ。

SSSグレードに搭載された1.6リッター直列4気筒SOHCの「L16型」エンジン。SUツインキャブレターを装着し、圧縮比を9.5に高めることで最高出力100馬力を達成しました。L型エンジンの優れた基本性能を世に知らしめた名機です。1970年のマイナーチェンジで1.8リッターの「L18型」も追加されました。

車体デザインと同様に、インパネ周りも直線基調で非常にシンプルにまとめられています。当時の欧米のトレンドを取り入れ、視認性と操作性を重視した結果です。SSSグレードに設定された3本スポークステアリングは、スポーティなウッドリムのコーンタイプを採用しています。

写真は1970年式の「ダットサン・ブルーバード 2ドアクーペ 1600SSS」の室内です。丸形の独立メーターが並ぶスポーティなコックピット。グローブボックスはマップランプ付きで、開口部はトレイとしても機能しました。シート表皮は精悍な黒のビニールレザーです。

ダットサン・ブルーバード 4ドアセダン(510型)
尻下がりと不評だった先代(410型)の反省から、直線を基調とした精悍なフォルム(スーパーソニックライン)へと大胆に転換しました。デザインは日産の社内デザイナーたちが手がけ、若き才能も結集して完成させました。

ダットサン・ブルーバード 2ドアセダン(510型)
流麗な2ドアクーペの登場によってやや影が薄くなりましたが、パーソナル感と若々しさを売り物にした2ドアセダンもデビュー当初からラインナップされていました。クーペ追加後も併売されています。

ダットサン・ブルーバード エステートワゴン/バン(510型)
デビュー時から設定されていたステーションワゴンおよび商用バンモデルです。乗用登録のエステートワゴンはフルリクライニングシートなどを備え、バンよりも上級なレジャー用途として位置づけられていました。

3代目 ダットサン・ブルーバード(510型)の、グレード別の仕様表(昭和45年・1970年当時のもの)

4代目 ダットサン・ブルーバードU(610型)

同時代の「ケンメリ」スカイラインにも通じる、特徴的なサイドウインドウのライン(Jライン)を採用。車格を上げて「ブルーバードU(Uはユーザーの意)」を名乗りましたが、曲面を多用した重厚なデザインは販売面で苦戦を強いられました。※この世代の登場後も、名車510型はエントリーモデルとして継続生産され、ダットサン・ブルーバード同士での併売体制がとられました。

4代目 ダットサン・ブルーバードU(610型)

「走る実験室」であったモータースポーツでの勝利が、世界的な名声を確立

実用品としての基本性能が完成の域に達した現代の市販車において、モータースポーツから市販モデルへ直接フィードバックされる技術は少なくなりました。開発中の新型車に求められる信頼性や走行性能は、コンピューターのシミュレーション上で高い精度で再現でき、最初の試作車の段階で市販モデルに近い完成度を実現できる時代になったからです。

しかし、エンジニアが手計算で強度や動きを割り出し、鉛筆で図面を引いていた1970年代までは事情が大きく異なりました。極限状態におけるクルマの性能や信頼性は、モータースポーツという過酷な実戦の場で磨き上げるしかありませんでした。ラリーやレースは、文字通り「走る実験室」だったのです。

同時に、人々の高性能車に対する憧れが現在よりもずっと強かった当時、モータースポーツでの勝利は何にも勝るマーケティング戦略でした。1958年のオーストラリア一周ラリーでのクラス優勝により、日産の株価が急上昇したというエピソードが物語るように、「レースで勝てばクルマが売れる」熱狂の時代だったのです。

世界一過酷と言われた東アフリカ・サファリラリーに挑戦し続けた日産自動車が、この時期に得た成果は計り知れません。1963年のサファリラリーには、ラダーフレーム構造の初代ダットサン・ブルーバード(310型)と、いち早くモノコックボディを採用した初代日産・セドリックで参戦。翌1964年には、新たにモノコックボディ化された2代目ダットサン・ブルーバード(410型)とセドリックで挑み、セドリックが総合20位に入りました。

続く1965年のサファリラリーでは410型ブルーバードが全滅という苦杯を舐めましたが、諦めずに改良を重ね、1966年には4台の410型で参戦。総合5位と6位を獲得し、悲願のクラス優勝を果たしました。モノコックボディで過酷な路面を走り抜き、勝てるクルマを造り上げるためには、これだけの時間と実戦経験が必要だったのです。

その血と汗の結晶として誕生したのが3代目ダットサン・ブルーバード(510型)です。1968年のテスト参戦を経て、1969年のサファリラリーではついに総合3位、5位、7位、8位に入賞し、クラス優勝とチーム優勝を獲得。そして1970年にはその勢いをさらに加速させ、総合1位、2位、4位、7位を独占。見事に総合優勝、クラス優勝、チーム優勝の三冠に輝く快挙を成し遂げました。

この歴史的勝利は新聞やテレビでも大々的に報道され(後に映画『栄光への5000キロ』の題材にもなりました)、日本の自動車メーカー各社は続々と国際ラリーに参戦を開始します。日産の挑戦は、日本車の高い実力を世界に知らしめるとともに、世界トップレベルの信頼耐久性を実戦の中で証明する大きな原動力となったのです。

1958年、豪州一周ラリーに参戦した「ダットサン乗用車 富士号(210型)」

1957年にトヨペット・クラウンが日本車として初めて海外ラリー(豪州一周ラリー)に参戦し、完走を果たしたことが話題となりました。日産は翌1958年の同ラリー(19日間で総走行距離1万6,000km)に2台の210型を投入。Aクラス(1,000cc以下)で富士号が見事に優勝を飾り、桜号も4位に入賞しました。

豪州一周ラリーは、当時世界最長の規模を誇り、広大なオーストラリア大陸1万6,000kmを19日間かけて一周する過酷なラリーでした。この無謀とも思える挑戦を推進し実現させた中心人物のひとりが、「ミスターK」の愛称で知られる片山豊氏(当時の宣伝課長)です。

1958年に、豪州一周ラリーに参戦しクラス優勝を果たした、日産のダットサン乗用車 富士号(210型)。

1958年の、豪州一周ラリーの様子。

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