その迫力ある重厚なスタイルから“重戦車”とも呼ばれたハイパワー4WDスポーツ【三菱GTO】誕生への道のり│月刊自家用車WEB - 厳選クルマ情報

その迫力ある重厚なスタイルから“重戦車”とも呼ばれたハイパワー4WDスポーツ【三菱GTO】誕生への道のり

その迫力ある重厚なスタイルから“重戦車”とも呼ばれたハイパワー4WDスポーツ【三菱GTO】誕生への道のり

三菱自動車のルーツは江戸時代に遡り、自動車製造の着手も大正期と古いものの、企業としての独立は1970年と実はホンダよりも若い。重工業を母体とする同社は、長らく軍用や商用などのBtoBビジネスに強く、大衆向け乗用車の分野では苦戦と紆余曲折を重ねてきた。そんな三菱が、クライスラーとの提携による制約のなかで作り続けた2ドア車の系譜と、バブル景気という時代背景が交差して生まれたのが、4WDスポーツカー「GTO」。大排気量ツインターボと迫力のボディを備え「重戦車」とも称されたGTOの軌跡を振り返りながら、質実剛健な技術力を持ちつつもどこか不器用な、三菱自動車の「らしさ」がうかがえるクルマであった。

●文:横田晃(月刊自家用車編集部)

元々、三菱重工業の一部門としてスタートした自動車製造

三菱自動車工業はホンダより若いというと、信じられない人もいるかもしれない。けれど事実だ。三菱といえば江戸時代末期に創業した海運業の九十九商会にルーツを持ち、近代日本のさまざまな分野で中心的役割を果たしてきた一大財閥だ。三菱自動車はその中でも、造船や航空機・兵器や鉄道車両、建設機械や発電プラントの生産といった工業分野を担ってきた三菱重工業の中の、自動車事業部門としてスタートしている。

初めて自動車を製造したのは、総合重工業メーカーとなる前、まだ三菱造船を名乗っていた1917(大正6)年のことだから、零戦などの航空機を手がけるよりも早い。ただし、フィアットをコピーした三菱A型と称するその乗用車の生産台数は、5年間でわずかに22台。しかも売れたのは12台に過ぎない。当時の日本には、乗用車の市場はまだ存在しなかったのだ。

ふそうブランドのBtoBビジネスが先行、乗用車部門はノックダウン生産からスタート

その後、ふそうブランドのバスやトラックで自動車事業はようやく軌道に乗り、1937年には軍部からの要請で軍用4WD車も試作している。戦後はスクーターのピジョンはヒットしたが、やはり軍や運送業者、公共交通機関といった、今でいうBtoBのビジネスに強みを持つ三菱グループの中では、個人客相手のBtoCビジネスの存在感は薄かった。

しかも、1950年にはGHQ(連合国軍総司令部)の命令で、三菱重工は東日本、中日本、西日本の3社に分割され、それぞれが独自の商品を開発製造するようになる。戦後に発足した自衛隊の制式車両ともなるアメリカ生まれのジープを、日本でノックダウン生産(部品を輸入して国内で組み立てる)から始めて国産化にこぎつけたのは中日本重工業。同じアメリカのヘンリーJという乗用車をノックダウン生産したものの、日本では大柄な3ナンバー車なのに2ドアという中途半端さから失敗に終わったのは東日本重工業だ。

初の自社開発車、500をデビューさせるが…

そうした曲折を経て、1960年に初の自社開発乗用車を送り出したのは、中日本重工業が改名した新三菱重工。発売した小型車の500は、当時話題になっていた通産省(現経済産業省)の国民車構想に応えたものだったが、質実剛健な作りは、戦中の三菱重工の代表作でもあった戦車になぞらえて、「崖から落としても壊れなさそうなクルマ」と当時の評論家に書かれる色気のなさで、やはりビジネスとしては不発に終わった。

そんなわけで、乗用車では成功体験のない三菱の自動車部門がメーカーとして独立したのは、3社が合併してふたたび三菱重工となった1964年よりさらに遅い、1970年のこと。戦後間もない1946年に創業したホンダより、独立企業としての歴史はずっと短いのだ。

三菱500は、中日本重工業から改名した新三菱重工が、初めて自社開発した乗用車だった。

新興だった三菱自動車が対米戦略で取った米メーカーとの提携

長々と三菱自動車の歴史を振り返ったのは、そうした歩みが独立後の同社の製品にもさまざまな影響をもたらしているから。1990年に発売されて2001年まで製造されていた4WDスポーツカーのGTOも、その例に漏れない。

じつは1970年の独立の前から、三菱重工はアメリカのビッグ3の一角であるクライスラー社と、北米における三菱車の拡販のための提携を模索し、1971年には設立されたばかりの三菱自動車の株式の15%をクライスラーに取得させている。

クライスラーの販売網を使って、よちよち歩きの三菱自動車の北米での販路を整えようという戦略だったが、じつはその契約はあまり良い条件ではなかった。北米で売る車両は、クライスラーの言いなり。しかも、彼の地で販売できる三菱車は、2ドア車に限られていたのだ。

1970~80年代に日本でもそれなりの人気を得たギャランHTや同Λ(ラムダ)、ランサーセレステ、スタリオンといった2ドアモデルは、そうした縛りの中で北米で売ってもらうために生まれた。1985年に最初の合弁基本契約はようやく解消されて自前の販売網の開拓が可能になるが、クライスラーの出資は20%に高まった。

ギャランΛ(ラムダ)

「ギャランGTO」の後継車種として登場したギャランΛ(ラムダ)。角型4灯ヘッドライトや、リアピラーに太いロールバー風のデザインを取り入れた「ラップアラウンド・リアウインドウ」など、当時のアメ車を彷彿とさせる斬新で高級感のあるエクステリアが特徴だった。北米では、ダッジ・チャレンジャーとプリムス・サッポロという車名で販売されていた。

ランサーセレステ

ランサーセレステは、初代ランサーをベースに開発された、スタイリッシュな3ドア・ファストバッククーペ。北米においては、クライスラーのプリムスブランドから「プリムス・アロー」という車名で販売されていた。

スタリオン

スタリオンは、ギャランΛの後継モデルとして登場し、1990年に登場するGTOの直系モデルといえるFRスポーツ。北米では、三菱スタリオンの名称で販売されたが、OEM車としてクライスラーコンクエストとしても販売されていた。

米提携メーカーからの縛りが取れ、北米で販売を開始したGTOはド級スポーツであった

一方、1980年代後半の日本はバブル景気に沸き、高価なモノから売れる時代。加えて、1989年の税制改正でそれまでは小型車の倍以上だった3ナンバー普通車の税額が下げられて、庶民にも一気に身近な存在になった。

スタリオンの事実上の後継車となるGTOは、その恩恵で大ヒットとなった三菱の3ナンバーセダン(4ドアHT)、ディアマンテとプラットフォームを共用して、280PSを発揮するV6の3Lツインターボエンジンにフルタイム4WDを組み合わせた、迫力あるスポーツカーとなった。クライスラーの縛りが消えて北米でも販売できるようになった海外仕様では320PSを発揮する一方、クライスラーの販路では、デザインにも手を入れたモデルがダッジ・ステルスの名で用意され、そちらには穏やかなFF車も設定された。

リトラクタブルヘッドライトを採用し、全幅1,840mmのワイドボディは、グラマラスでワイド&ローなボディを演出した。

車速が80km/hを超えると、フロントのベンチュリカバーが下がり、リアスポイラーが自動的にせり上がるという、当時の最先端ギミックを搭載していた。

センターコンソール部には、ドライバー側に向いた独立3連メーター(水温計、油圧計、ブースト計)が配置され。スポーツカーとしての雰囲気は十分だった。

ホールド性の高いサイドサポートが張り出したスポーツシートを採用。

見かけも、中身もド級であったGTOは、街中でもサーキットでも重厚な“重戦車”であった

日本国内ではN1耐久選手権(現スーパー耐久)にも参戦し、当時無敵を誇ったR32型スカイラインGT-Rを追い詰めたが、見かけ通りの重いボディでブレーキやタイヤへの負担が大きく、ついに優勝は果たせなかった。

迫力あるデザインと相まって、サーキットを走る姿は“重戦車”とも称された。かつての500とは違った意味で三菱らしさが感じられる一台だったが、やはり商売としてはいまいち。2000年にクライスラーからダイムラーへと提携先を乗り換えた後は、後継車は出なかった。

政府御用達の三菱ブランドの一員であることは、高い技術力や組織力に裏打ちされている一方で、気まぐれで移り気な大衆を相手にフットワーク勝負のビジネスをするには、狡猾さが足りなかったのかもしれない。この秋に復活するパジェロのような、地に足の着いたクルマこそが、やはり三菱らしいのだろう。

1993年のマイナーチェンジで、リトラクタブルヘッドライトが固定式プロジェクターヘッドランプに変更された。

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