「45年が過ぎてもなお、その美しさは色褪せない」ジウジアーロの最高傑作と称賛された“アッソ・ディ・フィオーリ”を市販化した『いすゞの美学』とは│月刊自家用車WEB - 厳選クルマ情報

「45年が過ぎてもなお、その美しさは色褪せない」ジウジアーロの最高傑作と称賛された“アッソ・ディ・フィオーリ”を市販化した『いすゞの美学』とは

「45年が過ぎてもなお、その美しさは色褪せない」ジウジアーロの最高傑作と称賛された“アッソ・ディ・フィオーリ”を市販化した『いすゞの美学』とは

鬼才ジウジアーロが提案したアッソシリーズ三部作のなか、唯一の量産車となったこのクルマは、ショーモデルそのままの近未来感覚を売り物にする一方、ソフトな手触り感や独創的な造形など細部に至るまでのこだわりで、雰囲気や美意識を大切にする大人のユーザーを中心に支持を拡げた。GMといすゞの関係があったとはいえ、高級輸入車販売のヤナセが取り扱うネロが登場するなど、日本車でありながらデザインやセンスを重視するイタリア車の雰囲気が漂うピアッツァは、欧州名門チューナーの手を借りたホットバージョンを追加するなど10年にわたって販売された。

●文:横田晃(月刊自家用車編集部)

ジウジアーロ(イタルデザイン)によるアッソ・デイ・フィオーリのイメージスケッチ。極端なウエッジシェイプのフォルムやタマゴのような凹凸のないフラッシュサーフェスを特徴とする。イメージの多くが市販のピアッツァにも受け継がれているのがよくわかる。

アッソ・デイ・フィオーリ

1979年のジュネーブショーで世界初公開されたピアッツァの原型。117クーペの後継モデルを模索していたいすゞは、小さなスーパーカー的魅力とワゴンの実用性を併せ持つアッソのコンセプトに目を付け、アッソ・デイ・フィオーリは誕生した。ピアッツァの量産化にあたり、全幅は35㎜ 、全高は22㎜ 拡大されている。

メーターパネルの左右に独立して配置された操作盤(サテライトポッド)を採用。右側にライト類、左側にワイパーやエアコンなどのスイッチが集約されている。このデザインは、そのまま市販車ピアッツァに引き継がれている。

ダッシュボード全体からセンターコンソール、ドアの内張り、そしてシートに至るまで、意図的にギャザーを使用した上質な本革で贅沢に覆われている。

ショーモデルの難しい造形を見事に再現した生産技術力

卓越した技術が厳しい競争を生き抜くための大きな武器であることは、言うまでもない。ただし、時にその技術が諸刃の剣になることもある。1981年から1991年まで作り続けられたいすゞのスペシャリティカー、ピアッツァは、その一例かもしれない。

明治以降の日本は、数々の名刀を生み出した刀鍛冶に代表される日本人ならではの細やか、かつ高度な職人技を海外の工業技術と融合させることで近代化を図った。その姿勢自体は正しかったけれど、そこに諸刃の剣が潜んでいた。なまじ優れた技術があると、無謀な挑戦にも取り組めてしまう。

さらにそれがある程度の成果をあげてしまうと、やめるわけにはいかなくなる。その最大にして最悪の結果が太平洋戦争だ。

富国強兵を掲げた時の日本政府は、さまざまな産業の育成に関与した。船舶や航空機、自動車産業も例外ではない。戦前にはトヨタや日産をしのぐほどの自動車メーカーだったいすゞも、東京石川島造船所(現・IHI)の自動車部門として生まれ、政府の庇護のもとに軍用トラックやバスなどの大型車に強みを発揮していた。

当時から世界トップレベルを誇ったディーゼルエンジン技術もその成果だ。

そんないすゞだけに、戦後に英国のヒルマンのノックダウン生産を皮切りに進出した乗用車作りも、たちまちモノにした。が、残念ながら売る方の技術は脆弱だった。初のオリジナル車のベレルはクラウンに歯が立たず、国産で初めてGTを名乗った小型車のベレットも、和製アルファロメオと呼ばれて高く評価されたが、後からカローラやサニーが登場すると、たちまち客を奪われてしまった。

それでも乗用車開発を続けたのは、優れた技術があったからこそだ。実用中型セダンのフローリアンがベースの117クーペも、市販化は困難とも言われたジウジアーロによる美しいデザインを、当初は職人の手仕事で実現させた。しかし、自動車が大衆商品になっていくマイカー時代にあっては、そんな工芸品のような作り方はもはや通用しなかった。

いすゞはGMから調達した資金で生産設備を近代化して量産化するが、13年間で9万台足らずの生産台数ではビジネスになるはずもなかった。

その後継車となるピアッツァもまた、ジウジアーロのデザインを高度な技術で見事に再現して喝采を浴びたものの、同じ轍を踏んでしまった。今度もまたトラックのように10年も作り続け、11 万台あまりを売ったものの、雪だるま式に増えていく乗用車部門の赤字の改善には繋がらなかったのだ。

大型のサスペンション・ブッシュを採用し、微振動の吸収力をアップ。お金のかかるダブルウィッシュボーンは当時まだ少数派だった。リヤもジェミニの流用だが、スタビライザーやガス封入強化型のショックアブソーバーを使ったZZ-R仕様のものが使われた。

ファッショナブルなクーペでありながら、汎用性も高かったピアッツァ。リヤシートは6:4分割でフォールドダウンし、大きな荷物も積み込めた。また着脱式のパーセルシェルフや荷物固定用のストラップも標準装備された。

優れたデザインと技術力、その足かせとなったジェミニベースの弱点

ピアッツァの成り立ちは、GMのグローバルカー、Tカーの一員として’74年に誕生した初代ジェミニのメカニズムをベースに、ジウジアーロのデザインによるクーペボディとしたもの。このクルマの前にジウジアーロはアウディとBMWをベースとしたクーペのショーカーも発表しているが、市販までこぎつけたのはピアッツァだけという事実は、彼の仕事が美しさの一方で商品化が難しい作品であることを物語る。

事実、ウイングなどの付加物に頼ることなくCd=0・36という優れた空力性能を実現させたピアッツァのウエッジシェイプのフォルムは、ボディとガラス面に段差のないフラッシュサーフェスや、キャラクターラインと一体化させたボンネットの見切り線などの、生産上の難所に溢れている。

アウディやBMWにそれが作れなかったわけではないだろう。ショーカーとしては話題を呼んだが、ごく冷静に考えれば、コストと労力をかけて市販にこぎつけても、ビジネスとしての成功は見込めないと判断したからのはずだ。

しかし、高級ブランドを標榜し、高い値付けも可能な彼らが諦めた商品企画に、いすゞはジュネーブショーでの大きな反響を支えに飛びついた。そして業界の誰もが驚くほど忠実に、ショーカーを再現して売り出したのだ。

外観だけでなく、インテリアもジウジアーロのアイデアを活かした。メータークラスターの左右にスイッチ類を集中させたサテライトスイッチや、LEDと蛍光管を使ったデジタルメーターなど、このモデル専用の凝ったメカニズムや作りを導入していた。いすゞ開発陣によるメカニズムにも見どころは多かった。

上級車に積まれるDOHCエンジンは、世界初の自己診断機能付きECU(当時の表現はマイコン)による電子制御。エンジンマウントにも国内初の液封を採用するなど、上級スペシャリティカーにふさわしい内容とされていた。ところが、ライバルはさらに上だった。

日産が1980年にレパードを発売。そしてトヨタもピアッツァ登場と同時期にソアラを投入した。直6の2.8LDOHCエンジンや4輪独立サスによる高性能、大人びた3BOXのクーペデザインなどが人気を呼び、ピアッツァが狙う客をあらかた持っていってしまったのである。

ピアッツァも1984年にターボを加えたり、イルムシャーやロータスとタイアップした走りのグレードで対抗するが、大衆車がベースのリンク式リヤサスや4気筒エンジンでは勝負にならなかった。

ジウジアーロが自身のスタジオを立ち上げたのちの1981年に登場したピアッツァは、117 クーペの事実上の後継車。1980年代のデザインを謳った徹底したフラッシュサーフェイスは生産が難しかったが、いすゞは見事に実現した。

基本イメージはすべてオリジナルデザインを活かし、量産化のための変更では必ずジウジアーロの了解を得たという。いすゞは複雑なデザインと生産性の両立で、その技術力の高さを証明した。

XEのデジタルメーター。蛍光表示管によるスピードメーターを中心に、サテライトスイッチの透過照明を含めて緑色を中心にした統一感のある色使い。なおサテライトスイッチはアナログメーター車にも採用されている。

シートもジウジアーロがデザイン。モダンな薄手のクッションは居住性の向上にも寄与。リクライニングは3段クイック付きの無段階、ランバーサポートも装備。

クーペとしてはかなり優秀なレッグスペースと頭上空間。リヤシートには4段階のリクライニング機構も備わった。シートは国産車にしては硬めだった。

贅沢品から普及品へ、クルマの価値観の変化に対応が遅れたいすゞ

ピアッツァが誕生した1980年代は、日本が世界の頂点に立とうとしていた時代だ。社会学者のエズラ・ヴォーゲルによるベストセラー、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の表題通りに、日本的経営が世界で評価され、アメリカに次ぐ経済大国の座を確立した。

1970年代に厳しい排ガス規制をいち早く乗り越えた日本車は、その技術を活かして高い経済性と動力性能を両立させ、世界の市場に進出。ビッグ3の経営が傾いた北米とは貿易摩擦が深刻化して、日本メーカーは北米向け輸出の自主規制を余儀なくされるまでになる。

国内ではマイカーがすっかり当たり前の存在になり、その後のミニバン時代の先駆けとなる、1BOXワゴンをファミリーカーとして使うユーザーが登場するなど、価値観の多様化も始まっていた。ピアッツァの運命は、そんな時代の変化を反映していた。

もともと2ドアクーペには、欧州型の大人のぜいたくなパーソナルカーと、北米型の若者のスポーティなデートカーという異なる切り口の商品企画があった。日本でもマイカー時代到来以前の1960年代の2ドアクーペは、ぜいたくな大人の乗り物。117クーペもそうした文脈の企画だった。

ところが、日本の若者にもマイカーが手の届く存在になった1970年代になると、フォードマスタングを筆頭に、実用セダンから派生した安価なスペシャリティクーペという企画が主流になる。1970年に誕生したセリカを嚆矢として、2ドアクーペは若者のクルマという時代を迎えるのだ。

それが1980年代になると、欧州型のぜいたくなクーペがふたたび脚光を浴びる。一家に一台どころか、地方ではひとりに一台の時代を迎えて、懐に余裕のあるダンナ衆の遊びグルマとして、ソアラのような高級パーソナルクーペが求められるようになったのだ。

本当なら、ピアッツァはそこにジャストミートする企画のはずだった。しかし、トラックやバスなどのプロユーザーが主な顧客だったいすゞには、十人十色の個人客の嗜好の変化を的確に捉えて、市場に合うモデルをタイミングよく投入することができなかった。

内外装の質感はソアラやレパードにも負けない高級パーソナルクーペに仕上がっていたピアッツァだが、シャシーやエンジンはライバルたちに比べていささか見劣りした。この頃、欧州的価値観の大人のクーペには、より上級・高性能が求められていたのだ。

2代目ピアッツァは大人のクーペから若者のクーペに転換を図るが、もはやその市場は日本になかった。

irmscher(イルムシャー)

2.0 Lターボ車をベースに、ドイツの名門チューナー「イルムシャー」が手がけたしなやかな足回りに加え、角形4灯式ヘッドランプやMOMO製ステアリング、レカロ製シート、専用デザインのフルホイールカバーを採用した人気モデル。

イルムシャーに装着されたレカロ製シート。バネ定数の高いシートスプリングや腰の部分のクッションが特徴で、無段階リクライニングも可能。

2代目ピアッツァ(1991~1993年)

いすゞ社内デザインとなった2代目は、セミリトラクタブルヘッドライトなど先代のテイストを残しつつ、スタイルも中身もよりジェミニとの関係を深めた。エンジンは1.8ℓのDOHC、サスペンションは4輪独立懸架となり、メカニカル4WSのニシボリックサスも採用された。コンパクトクーペとしての完成度は高かったが初代のプレミアム感は減少。先代からの乗り換え需要も取り込めず’93年いっぱいで生産終了となった。

インパネデザインはジェミニクーペ/PAネロがベースになっているが、表面処理の変更などで質感は高まっている。先代のサテライトスイッチ程ではないが、メーターパネルの左右に操作スイッチを集中させている。シフトノブやパーキングレバー、MOMO製ステアリングは本革巻き。シートはサイドサポートとヘッドレストに本革張りを用いたRECARO製。

搭載されるエンジンは1.8ℓの16バルブDOHCのみ。ジェミニ/PAネロに積まれる4XE1型のストロークをアップさせたものだ

※掲載内容は公開日時点のものであり、将来にわたってその真正性を保証するものでないこと、公開後の時間経過等に伴って内容に不備が生じる可能性があることをご了承ください。※特別な表記がないかぎり、価格情報は税込です。