
1990年、バブル経済の熱気に包まれた日本に、まるでモーターショーのステージからそのまま飛び出してきたかのような一台の車が誕生した。トヨタから発売されたセラ。斜め上方に跳ね上がる「バタフライドア」と、ルーフ部分まで回り込んだ全面ガラス張りの「グラッシーキャノピー」。扱いやすい大衆車のメカニズムをベースにしながらも、戦闘機のコックピットのような圧倒的な開放感と、非日常的なスタイリングを実現した。利便性や実用性よりも、「見て、乗って、楽しむ」というロマンを純粋に追求したこのクルマは、当時のトヨタの豊かな開発力と遊び心を象徴するモデルであり、30年以上が経過した今なお世界中のファンを魅了し続ける唯一無二の存在なのだ。
●文:横田晃(月刊自家用車編集部)
上部をほとんどガラスで覆われていた開放感抜群のセラ(“あらゆる天候下でのオープン感覚”と謳われていた)。しかし、オプションでルーフサンシェードが用意されていたものの、ガラス面積が広い上に、熱線吸収ガラスなど熱対策が施されていなかったこともあり、炎天下での使用はかなり厳しかった。
日本では、漫画から火がついたスーパーカーブームで認知されるようになったガルウイング
「ガルウイングドア」という言葉に、日本ほど多くの人が反応する国は、おそらくないだろう。週刊少年ジャンプ(集英社刊)で1975年から1979年まで連載された池沢さとし(現・早人師)作の大ヒットマンガ「サーキットの狼」が、世界の多くの庶民は存在すら知らなかったそのドアに、日本では国民的な認知度を与えたのだ。
作品中でバトルを繰り広げた世界のスーパーカーの中でも、ランボルギーニカウンタックが備えていた大きく上方に開くガルウイングドアは、高性能のシンボルとして当時の少年たちの羨望の的になった。各地のデパートなどで開催されたスーパーカーショーにはカメラを携えた少年たちが押し寄せ、休日の都内の繁華街でも、得意げにガルウイングドアを開けて見せるカウンタックが、熱い視線を浴びる光景が見られたものだった。
そもそも、ガルウイングとは300SLが導入したルーフヒンジのポップアップドアのことだった
ガルウイング、すなわちかもめの羽のように上方に開くドアは、1954年にメルセデスベンツ300SLが世界で初めて装備した形式だ。低い車高で高いボディ剛性を追求した結果、ドア下の敷居に当たるサイドシルが太くなり、通常のドアでは乗降性が悪くなってしまったために採用されたとされる。以来、副産物として乗り降りを派手なアトラクションにしてしまうそのドアは、欧州の貴族がパーティや劇場、リゾート地などに乗りつけた豪奢な2人乗り馬車(それをクーペと呼んだ)に起源をもつスーパーカーに、採用例を増やした。
厳密には、ガルウイングドアと呼べるのはメルセデスベンツ300SLのように開閉軸が車両の前後方向に位置し、前から見ると文字通り翼を広げたかもめのように見えるモデルだけ、と主張するマニアもいる。彼らに言わせれば、ガルウイングもふくめて上方に開くドアはポップアップドアと総称すべきであり、その中でも斜め上に開くランボルギーニのはシザーズ(はさみ)ドアに分類されるということになる。でもまあ、かつてスーパーカー少年だった多くの人々にとっては、みんなまとめてガルウイングドアでいいじゃん、だろう。筆者もそう思う。
ドアが跳ね上がるポップアップドア(バタフライドア)が特徴的だったセラ。
上部全面をガラスで覆い、ガルウイングを採用したコンパクトスペシャリティカーとして登場したセラ
通常のドアよりコストは高いし、開閉や乗り降りには独特のクセやコツを必要とするから、本来はスーパーカーのような特別なクルマにしか見られないのがガルウイングドアだ。しかし、時はバブル真っ盛りの1990年のこと。イケイケどんどんの世相の中で、トヨタは1.5Lの大衆向けFFコンパクトカーのセラに、その派手なドアを備えてしまったのだ。
商品企画的には、セラは当時のスターレットのクーペに当たるモデルだ。事実、エンジンや足回りはほぼスターレットそのもの。1.5LのエンジンはDOHCだが、これは環境対応型で、最高出力も110PSと、ごく穏やかなものだった。
そんなセラの一番のポイントであるガルウイングドアは、ボディの上屋をすべてガラスで覆った、グラスキャノピーデザインを実現させるために採用された。リヤのハッチゲートが全面ガラスのクーペはすでにあったが、セラでは天井までガラスがつながったガルウイングドアとすることで、ほぼ全面ガラス張りのキャビンを実現したのだ。
その甲斐あって車内からの見晴らしはこの上なく良好だし、乗降シーンはスーパーカーのようにアトラクティブになったのだが、このクルマの見どころはじつはその開発裏話にある。トヨタはこのドアを実現させるために、まず日本中の立体駐車場の寸法を確かめたのだ。
発売当時は、一般的な総称としてガルウイングの名称で登場したセラ。後に、ドアを開けた様子が蝶のように見えることから「バタフライドア」と呼ばれるようになった。
立体駐車場でも安心してドアが開閉できるポップアップドアは、国産車らしい工夫が施されていた
ガルウイングドアは上方に開くため、乗降時に隣りのクルマとの間に必要なスペースは、通常のドアよりむしろ少ない。問題は上方向だ。300SLやカウンタックのようにドッカンと大きく開いては、狭い立体駐車場ではどこかにぶつかってしまうかもしれない。それを避けるために、あらゆる立体駐車場を調べ、全開にしても周囲にぶつからず、乗降性も損なわない開き方を開発者はつきとめた。結果、セラのドアは例のマニアがバタフライドアと呼ぶ、水泳のバタフライの腕の動きのような開き方になった。
工夫したのはそこだけではない。ガルウイングドアはリヤハッチゲートと同様に開閉力を補助し、開けた状態を保持するためにオイルダンパーを備えるが、通常のそれでは夏と冬で中のオイルの粘度が変わるために、ドア開閉の操作力が変わってしまう。そこで開発者は、ドア内に補助ダンパーを仕込み、温度による開閉力の差が出ないようにしたのだ。
立体駐車場での使用を考慮して開閉方法を研究。そのため、立体駐車場内でもドア全開を可能にした。
外気温で油圧が変化し、ドアの開閉に支障をきたさないように補助ダンパーも設置。
エアコンは強化されていたものの、ガラスキャビンから入り込む日差しにより、車室内は温室そのものだった
若者のデートカーに使われる安いクルマのために、ありったけの気配りと技術を駆使して商品力と実用性を両立させる。その姿勢はトヨタの真骨頂とも言えるものだった。
ただし、総ガラス張りのキャビンは想像通り夏には温室になった。もちろんエアコンは強化されていたが、今では軽自動車にも使われている熱線吸収ガラスや着色ガラスがまだ一般的ではなかった当時は、セラの乗員は車内でカンカン照りの太陽に照らされながらのドライブを強いられてしまったのである。今ならきっと、日差しに合わせて色が変わる調光ガラスが採用されたことだろう。
ともあれ世界でも珍しいガルウイングドアの大衆向けクーペ、セラは、バブル景気という世相の中でこそ生まれることができた。セラの2年後に、正真正銘のガルウイングドアを備えて誕生したマツダの軽ミッドシップスポーツカーのAZ-1もそうだ。
あの時代のすべてが良かったとは言わないが、ガルウイングドアは日本が一番元気のよかった時代の、輝けるアイコンのひとつなのだと懐かしく思うのは筆者だけだろうか。
インパネはラウンドフォルムを採用し、包み込むようにドライバー側に向けられていた。
フロントシートは、ヘッドレスト一体型のスポーティなバケット形状を採用。
1.5L直列4気筒DOHC「5E-FHE型」を搭載。110PSを発生した。
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